文明の黎明から現代まで — スクロールして辿る
長江下流域の浙江省余姚一帯で発見された河姆渡遺跡では、大量の炭化した稲籾や骨製の農具、高床式建物の柱穴跡が出土しており、中国最古級の稲作農耕文化の姿を伝えている。低湿地という環境に適応した高床建築は、後の江南地方の住居様式の源流の一つとも考えられている。出土した豚や水牛など家畜の骨からは、農耕と並行して牧畜も行われていたことがうかがえる。1970年代の発掘調査によって存在が広く知られるようになり、黄河文明中心史観を見直す契機ともなった遺跡である。
黄河中流域の陝西・河南・山西一帯に広がった新石器文化で、赤地に黒や赤で文様を描いた彩陶を特徴とすることで知られる。代表的な遺跡である西安近郊の半坡では、環壕に囲まれた集落跡や竪穴住居、共同墓地の遺構が発見され、当時の集落生活の様子を詳しく知ることができる。彩陶に描かれた人面魚文などの図像は、宗教的・呪術的な意味を持っていたとする説もある。仰韶文化は数千年にわたり存続し、後続の竜山文化へと徐々に移行していったと考えられている。
山東地方を中心に栄えた新石器文化で、精巧な彩陶や薄手の黒陶、そして玉器の製作技術の発達を特徴とする。墓地遺跡の副葬品には豊かなものと乏しいものとの差が見られ、この時期すでに私有財産の蓄積と社会階層の分化が進んでいたことを示す証拠と考えられている。象牙製の器や大型の石斧など、権威の象徴とみられる副葬品も出土しており、首長層の存在をうかがわせる。この文化は後に山東地方の竜山文化へと発展的に継承されていったとされる。
山東省章丘県の城子崖遺跡で最初に発見されたことからその名がつけられた文化で、轆轤(ろくろ)を用いて成形された薄手で光沢のある黒陶を特徴とする。版築技法による城壁を備えた集落遺跡が各地で確認されており、集団間の緊張関係の高まりと、より組織化された社会への移行を示すと考えられている。占卜に骨を用いる風習の萌芽もこの時期に見られ、後の殷代甲骨占卜の源流の一つとされる。竜山文化は後の夏王朝の成立母体の一つとしても位置づけられている。
中国神話における代表的な始祖抗争の伝承で、黄帝が異民族の首長とされる蚩尤を涿鹿の地で破ったと伝えられる。この戦いの記述は後代の文献にまとめられたものであり、史実として確定できるものではないが、中国古代における部族連合の形成過程を反映した伝承と見る研究者もいる。黄帝は勝利の後、周辺諸部族を糾合した伝説的な始祖として位置づけられ、後世「炎黄子孫」という言葉に象徴されるように漢民族共通の祖として神格化されていった。現在も陝西省などに黄帝を祀る陵墓・廟が伝わり、今日まで祭祀の対象となっている。
実力や血統によらず、徳のある人物へ王位を譲る「禅譲」の理想を体現する伝承として、堯が舜に、舜がさらに禹に位を譲ったと伝えられる。この物語は後世の儒家によって理想的な統治のあり方として繰り返し称揚され、有徳者による統治という政治思想の重要な典拠となった。史実としての実態は明らかでないが、後代の王朝交代において自らの正統性を主張する際にも、しばしばこの禅譲の故事が引き合いに出された。堯・舜を祀る廟は山西省など各地に伝わり、現在も伝説の記憶をとどめている。
中国最古の王朝とされる夏は、黄河の大洪水を治める治水事業を成功させた禹への信頼を背景に成立したと伝えられる。禹は舜から禅譲を受けて即位したとされ、その後自らの子である啓に位を継がせたことで、それまでの禅譲の慣習に代わり世襲による王位継承の先例を開いたとされる。夏の実在については長らく議論があったが、河南省の二里頭遺跡など考古学的調査の進展により、この時期に相当する高度な文明の存在が明らかになりつつある。ただし「夏」という王朝名や系譜が同時代文字史料で確認されているわけではなく、なお検討が続く分野である。
禹が父鯀の失敗を踏まえ、水を堰き止めるのではなく水路を切り開いて海へ流す治水法を採用し、黄河流域の氾濫を治めたと伝えられる。この事業のため各地を奔走し、自宅の前を三度通りながらも一度も立ち寄らなかったという「三過家門不入」の逸話は、公への献身を象徴する故事として後世長く語り継がれている。治水という具体的かつ人々の生活に直結する功績を成し遂げたことが、禹に対する絶大な信頼と権威をもたらし、後継者への世襲を可能にする政治的基盤を形成したと考えられている。この伝承は、中国において治水事業が為政者の正統性と分かちがたく結びついていたことを示す早い例でもある。
禹の孫にあたる太康は狩猟や遊興にふけって政務を顧みなかったため、東方の有力な部族であった有窮氏の首長・羿(后羿)に国政の実権を奪われたと伝えられる。羿は弓の名手として知られ、太康が都を留守にしている隙をついて実権を掌握したとされる。この事件により夏王朝は一時的に統治の実を失い、王家の権威が大きく揺らぐことになった。この故事は、為政者が享楽に溺れて職責を怠れば国を失うという教訓として、後世の史書でもしばしば引き合いに出される。
太康失国により実権を失った夏の王族の一人であった少康は、各地を放浪する亡命生活を送りながらも支持勢力を糾合し、有窮氏らを排して夏の王権を回復したと伝えられる。この一連の再興劇は「少康中興」と呼ばれ、一度傾いた王朝を建て直した成功例として後世高く評価されてきた。少康の代を経て夏王朝は再び安定した統治体制を取り戻し、以後数百年にわたり存続していくことになる。この故事は、逆境からの再興という主題として、後代の王朝が自らの正統性や復興を語る際にも参照された。
夏王朝最後の王とされる桀は、寵姫の妹喜を溺愛し酒池肉林の享楽にふけって、民力を顧みない苛烈な統治を行ったと伝えられる。諸侯や民衆の信望を失った結果、東方で台頭してきた商(殷)の湯王に離反する勢力が相次いだとされる。桀の暴虐ぶりを伝える逸話の多くは殷周以降の史書に記されたものであり、勝者である殷側の史観が反映されている可能性も指摘される。それでも桀は後世、殷の紂王と並んで「暴君」の代名詞として繰り返し引用される存在となった。
諸侯の支持を集めた商(殷)の湯王が桀の軍を鳴条(現在の山西省南部一帯とされる)で打ち破り、夏王朝はここに滅亡したと伝えられる。この戦いに先立ち、湯王は伊尹を宰相として登用し、着実に勢力を蓄えたうえで挙兵に踏み切ったとされる。夏の滅亡と殷の建国は、中国史上最初に確認される王朝交代の物語として、後の「易姓革命」という政治思想の原型ともなった。以後、殷(商)が中原における新たな支配者として台頭していくことになる。
夏の桀を鳴条の戦いで破った湯王が、新たな王朝として殷(商)を開いたと伝えられる。湯王は名宰相伊尹の補佐を受けて内政を整え、周辺諸侯の信望を集めたうえで夏打倒に踏み切ったとされる。殷代には青銅器の鋳造技術が飛躍的に発展し、祭祀や占卜を通じて王権の正統性を示す統治体制が本格化していった。なお殷の建国当初の都の所在地については諸説あり、後の盤庚の遷都によって都が現在の河南省安陽の地に定まるまで、幾度か遷都が繰り返されたと考えられている。
殷は建国以来、洪水などの理由で幾度も都を移していたが、第19代の王とされる盤庚の代に都を殷(現在の河南省安陽)に定め、以後長期にわたり安定した王朝運営が続いたとされる。遷都に際しては貴族層の抵抗も強かったと伝えられ、盤庚は民や臣下を説得する訓辞を残したとされる。この安陽の地は後に「殷墟」と呼ばれる大規模な都城遺跡として現代に伝わり、20世紀の発掘調査によって甲骨文字をはじめとする殷代文明の実態が明らかになった。以後の殷はこの地を都として約250年にわたり存続することになる。
王が国家の重要事項を占う際、亀の甲羅や獣の肩甲骨を火であぶってできたひび割れの形から吉凶を判断し、占いの内容と結果を刻みつけたのが甲骨文字である。現存する最古の体系的な漢字群であり、既に象形・指事・会意・形声といった漢字の基本的な構成法がほぼ出そろっていたことが確認できる。王の狩猟・祭祀・軍事・農事・天候など、当時の政治と生活のあらゆる場面が記録されており、王の意思決定に深く関わる重要な史料となっている。19世紀末に薬材「竜骨」として売買されていたものが甲骨文字と気づかれたことをきっかけに存在が知られるようになり、以後の殷墟発掘調査によって10万点を超える出土が確認されている。
殷でもっとも国力が充実したとされる武丁の治世には、王妃の一人である婦好が自ら軍を率いて周辺諸族を征討したことが甲骨文に記されており、殷の勢力圏が大きく拡大した時期とされる。婦好は祭祀を主宰する神官としての役割も担っていたことが甲骨文からうかがえ、当時の王室女性が軍事・宗教の両面で重要な地位を占めていたことを示す貴重な事例である。1976年に殷墟で発見された婦好墓は盗掘を免れた状態で発見され、大量の青銅器・玉器・骨器などがほぼ完全な形で出土した。この発見により、文献の乏しい殷代の王室生活や祭祀のあり方が具体的に明らかになった。
殷最後の王とされる紂は、寵姫妲己を溺愛して酒池肉林の享楽にふけり、諫言する重臣を残酷な刑罰で処したと伝えられ、後世「暴君」の典型として語られてきた。ただし紂王の暴虐を伝える逸話の多くは後代の文献、とりわけ殷を滅ぼした周の側の史料に由来しており、勝者による敗者への史観が誇張された形で反映されている可能性が指摘されている。近年の研究では、紂王は東方の異民族討伐を積極的に進めた有能な君主であった一面も指摘されており、単純な暴君像の見直しも進められている。この紂王をめぐる物語は、後世『封神演義』をはじめとする伝奇小説の題材として繰り返し脚色され、現代でも映像作品に描かれ続けている。
殷の紂王による失政と重税に対する諸侯の不満を背景に、西方で勢力を蓄えていた周の武王が諸侯連合軍を率いて挙兵し、殷の都近郊の牧野で決戦に及んだ。この戦いで殷軍の主力は総崩れとなり、紂王は宮殿に火を放って自ら命を絶ったと伝えられる。約550年続いたとされる殷王朝はここに滅亡し、以後は周王室を頂点とし、一族や功臣を諸侯として各地に封じる封建的な統治体制の時代が始まることになる。この王朝交代は、武力による天命の移行という形で、後の中国史における易姓革命思想の原型のひとつとなった。
牧野の戦いで殷を滅ぼした武王が、渭水盆地の鎬京(現在の西安付近)に都を置き、新たな王朝として周を開いた。周王室は「天命」という思想を掲げ、徳を失った殷に代わって天より統治を委ねられたとする形で自らの正統性を説明した。この天命思想は、以後の中国史において王朝交代を正当化する基本的な政治理念として長く受け継がれていくことになる。武王は即位後まもなく没したと伝えられ、その後は弟の周公旦が幼い成王を補佐して国家の基礎固めにあたった。
周王室は一族や功臣、あるいは服属した旧勢力の首長らを各地の諸侯として封じ、彼らに封国の統治を委ねる封建制(分封制)を確立した。諸侯は周王に対して軍役や貢納の義務を負う一方、封国内では独自の統治権を持ち、血縁関係を軸にした宗法制度と結びつくことで秩序が保たれた。この制度により周の勢力圏は黄河流域から長江流域にまで大きく広がり、後の中国の広大な版図の原型が形成されていった。一方で、時代が下り血縁的なつながりが希薄化するにつれ、諸侯の自立傾向が強まり、春秋戦国の分裂を招く要因ともなった。
武王の弟であった周公旦は、幼くして即位した成王を補佐する摂政として国政を担い、殷の遺臣らによる反乱(三監の乱)を鎮圧して周王朝の基盤を安定させた。周公旦はまた、身分や場に応じた行動規範である「礼」と、それを支える音楽としての「楽」を体系化し、統治と社会秩序の両面を支える礼楽制度を整備したと伝えられる。この礼楽による統治のあり方は、後に孔子が理想とする政治のモデルとして繰り返し言及し、儒教思想の重要な源流の一つとなった。摂政としての任期を終えると自ら政権を成王に返上したとされ、その公明な人柄は後世「周公」として長く尊敬を集めることになる。
成王とそれに続く康王の治世は、刑罰を四十年余り用いる必要がないほど天下が治まっていたと伝えられ、周王朝における理想的な太平の時代として後世長く語り継がれている。この時期に鋳造された青銅器「何尊」の銘文には、成王が周公の遺志を継いで東都成周(洛邑)の造営を進めたことや、「宅茲中國(この中国に居す)」という一節が刻まれており、これが現在確認できる「中国」という語の最古の使用例として知られる。安定した政治基盤のもとで周の勢力圏はさらに拡大し、諸侯を束ねる周王室の権威も最盛期を迎えたとされる。もっとも、こうした太平の記述は後代の理想化を含んでいる可能性もあり、史料の性格には注意が必要である。
厲王の圧政と言論統制に対し、都に住む「国人」と呼ばれる人々が蜂起し、厲王は都を追われて彘(山西省)の地へ逃れたと伝えられる。王が不在となった周では、有力な大臣であった周公・召公らが合議によって政治を執り行う「共和行政」と呼ばれる異例の統治体制が敷かれた。この共和元年(前841年)は中国史上、年代が確実に一年単位で判明する最初の年とされ、以後の中国の紀年法における重要な基準点となっている。共和行政は厲王の死後、その子である宣王の即位まで十四年間続いたと伝えられる。
寵姫褒姒を溺愛した幽王が、彼女を笑わせるためにいたずらに烽火(のろし)を上げて諸侯を集めては失望させることを繰り返した結果、いざ西方の異民族犬戎が本当に侵攻してきた際には誰も救援に駆けつけなかったと伝えられる。この「烽火戯諸侯」の逸話は、信義を失った為政者の末路を戒める故事として後世に広く知られている。犬戎の攻撃により都鎬京は陥落して幽王は殺害され、ここに西周は滅亡した。翌年、諸侯に擁立された平王は混乱を逃れて都を東方の洛邑(現在の洛陽)へ移し、以後の時代は「東周」、なかでも前半期は「春秋時代」と呼ばれることになる。
西周の滅亡を受け、諸侯の支持を得た平王は都を鎬京から東方の洛邑(現在の洛陽)へと移した。この遷都以後の周を「東周」と呼び、その前半期にあたる時代が「春秋時代」と称される。東遷を境に周王室の直轄領は大きく縮小し、諸侯に対する軍事的・経済的な優位を失ったことで、その権威は次第に形式的・儀礼的なものへと変質していった。これに代わって、独自の軍事力と経済力を背景に諸侯間の秩序を主導する有力諸侯、すなわち「覇者」が台頭する時代が始まることになる。
東方の大国斉の桓公は、かつて自らの命を狙った政敵側の臣であった管仲を寛容にも宰相として登用し、その卓越した内政・経済改革によって国力を大きく高めた。「尊王攘夷」を掲げ、周王室の権威を立てつつ異民族の侵入から中原諸国を守るという名分のもと、諸侯を集めた会盟を主催し、春秋時代で最初の「覇者」として認められる存在となった。管仲の改革は塩や鉄の専売など後世の経済政策の先駆けともいえる内容を含み、その言行は後に『管子』としてまとめられ伝えられている。桓公の覇業は、以後の晋・楚・呉・越など有力諸侯が覇権を争う「春秋の五覇」の時代の先駆けとなった。
晋の文公(重耳)は若い頃に国内の政争を逃れて19年間にも及ぶ亡命生活を各国で送り、艱難辛苦の末に帰国して即位したという劇的な半生で知られる。即位後は南方の大国楚と中原の覇権を争い、城濮の戦いにおいて機略に富んだ戦術を用いてこれを打ち破った。この勝利により晋は斉に続く新たな覇者としての地位を確立し、以後長きにわたり中原諸侯に大きな影響力を持ち続けることになる。亡命中に世話になった人々への恩義を貫いた逸話や、退却の約束を律義に守った「退避三舎」の故事なども、文公の人物像を伝えるものとして後世に語り継がれている。
魯国の陬邑(現在の山東省曲阜近郊)に生まれた孔子は、若くして礼制に通じ、後に多くの弟子を率いて諸国を遊説しながら仁と礼による理想の政治を説いた思想家・教育者である。身分の別なく門弟を受け入れたその教育姿勢は、当時としては画期的なものであった。孔子自身の言行やその弟子との問答は死後『論語』としてまとめられ、以後の中国のみならず朝鮮・日本・ベトナムなど東アジア全体の思想・倫理・統治観に長きにわたり絶大な影響を与え続けている。生前は必ずしも政治的に重用されなかったが、漢代以降儒教が国家の正統思想として位置づけられるにつれ、孔子は「聖人」として特別な地位を占めるようになった。
長江下流域で覇を競った呉と越の両国は、数十年にわたり激しい抗争を繰り広げた。会稽で呉に大敗した越王勾践は屈辱的な講和を受け入れて臣従し、以後は苦い肝を嘗めて恨みを忘れぬよう自らを戒めながら国力の回復に努めたと伝えられる。一方の呉王夫差もまた、父の敗死の恨みを忘れぬよう薪の上に寝て復讐を誓ったとされ、両者の執念の物語はやがて「臥薪嘗胆」という故事成語として現代の日本語にも定着している。長年の雌伏の末に勾践は名臣范蠡らの補佐を得て呉を滅ぼし、最終的に中原にまでその名を知られる覇者となったと伝えられる。
春秋時代を通じて中原の有力な覇者であった晋では、公室の権威が弱まる一方で、韓・魏・趙という有力な大夫(卿)の家系が実権を握るようになっていった。前453年、これら三氏は互いに争っていた智氏を滅ぼして所領を分割し、事実上晋の領土を三分割する状態となった。名門の大国であった晋がこうして解体されたことは、それまで血縁や伝統的権威に基づいていた秩序の崩壊を象徴する出来事であり、実力本位の下剋上的な政治情勢への移行を印象づけるものとなった。この三家分晋は、後の前403年に周王室から正式な諸侯として承認されることで名実ともに確定し、戦国時代の始まりを画する重要な画期とされる。
すでに実質的に晋の領土を分割支配していた韓・魏・趙の三氏に対し、周の威烈王が正式に諸侯としての地位を認め、それぞれ独立した国として承認した。これにより名門大国であった晋は名実ともに消滅し、韓・魏・趙という三つの新興国が戦国時代の主要な列強に名を連ねることになった。この出来事は、実力を持つ者が名分をも手にするという下剋上的な時代の空気を象徴しており、司馬光の『資治通鑑』はこの前403年をもって戦国時代の始まりとしている。以後、秦・楚・斉・燕を含めた「戦国七雄」が互いに覇権を争う動乱の時代が本格化していく。
西方の後進国であった秦で登用された法家の政治家商鞅は、孝公の全面的な支持のもと、身分の別なく軍功に応じて爵位や土地を与える制度、連座制による治安維持、度量衡の統一など、徹底した法治主義に基づく大改革を断行した。旧来の貴族層の特権を否定するこの改革には強い抵抗もあったが、商鞅は太子の傅役を処罰するなど法の適用に一切の例外を認めない厳格な姿勢を貫いたと伝えられる。この変法により秦の国力は農業生産と軍事力の両面で飛躍的に高まり、後の中国統一に向けた決定的な転機となった。もっとも商鞅自身は孝公の死後、旧貴族層の反発を受けて非業の死を遂げたと伝えられ、改革者の栄光と悲劇を象徴する人物ともなっている。
周王室の権威が失われ諸国が生き残りをかけて争うなか、富国強兵や理想の統治のあり方をめぐって多様な思想家たちが各国の君主に自説を説いて回った。儒家の孟子は性善説に基づく王道政治を、道家の荘子は無為自然の境地を、墨家の墨子は身分を超えた博愛(兼愛)と非攻を、法家は信賞必罰の法治を、それぞれ主張し、互いに論争を繰り広げた。斉の都臨淄に設けられた稷下では、諸国から集まった学者たちが官職に就くことなく自由に議論を交わす「稷下の学」と呼ばれる知的サロンが栄えたと伝えられる。この時代に形成された諸思想は、以後二千年以上にわたる中国の政治・倫理・哲学思想の基盤を形づくることになった。
強大化する秦への対応をめぐり、東方六国が秦以外の国相互に同盟を組んで対抗しようとする「合従」策と、逆に秦が個々の国と結んで他国を分断しようとする「連衡」策との間で、めまぐるしい外交戦が繰り広げられた。合従策を説いた蘇秦は一時六国の宰相を兼任したと伝えられ、対する連衡策を説いた張儀は秦の宰相として各国を巧みに切り崩していったとされる。両者はともに弁論術に長けた縦横家と呼ばれる遊説家であり、その駆け引きは単なる武力に依らない情報戦・外交戦の重要性を後世に強く印象づけた。結果として東方諸国の足並みはたびたび乱され、この間に秦は着実に国力を蓄えて他国を圧倒する存在へと成長していった。
秦と趙という二大強国が国運を賭けて激突した戦いで、当初持久戦に持ち込んでいた趙の将軍廉頗が更迭され、実戦経験の乏しい趙括に指揮が交代したところを秦の名将白起につけこまれ、趙軍は包囲されて壊滅的な敗北を喫した。捕虜となった趙兵は数十万に上ったが、白起はその大半を生き埋めにしたと伝えられ、戦国時代を通じて最大規模の犠牲を出した戦いとして知られる。この敗北により趙は事実上再起不能なほどの国力を喪失し、東方六国の中で秦に対抗しうる最大の障壁が取り除かれたことで、以後秦による中国統一への流れが決定的なものとなった。1990年代以降、山西省高平市の古戦場周辺では多数の白骨が埋まった坑跡が発掘され、この戦いの凄惨さを裏付ける物証となっている。
秦王政(後の始皇帝)は、韓・趙・魏・楚・燕を相次いで滅ぼした後、最後まで独立を保っていた東方の斉を降して全土を統一した。これにより前403年の三家分晋の公認から数えて約180年、あるいは前770年の平王東遷から数えるとおよそ550年に及んだ分裂と抗争の時代についに終止符が打たれた。長期にわたる戦乱を勝ち抜いた秦は、それまでの封建的な諸侯体制に代えて中央集権的な郡県制を全土に敷き、度量衡・文字・貨幣の統一など、以後の中国の国家運営の基本形を作り上げていくことになる。この統一は中国史上初めて単一の皇帝権力のもとに広大な領域がまとめられた画期的な出来事であり、「皇帝」という称号もこの時新たに創始された。
戦国七雄のうち最後まで抵抗した斉を滅ぼし、秦王政は中国史上初めて全土を統一する。統一後は自ら「皇帝」の称号を創始し、三皇五帝を超える権威を天下に示そうとした。度量衡・文字・貨幣の統一に加え、車軌(車輪の幅)まで規格を揃えるなど、分裂していた社会基盤を隅々まで均質化する政策を矢継ぎ早に打ち出した。従来の封建制を廃して郡県制による中央集権体制を敷き、官僚が皇帝の命令一つで全土を統治する仕組みを作り上げたことは、以後2000年余り続く中国的統治システムの原型となった。在位はわずか十数年に過ぎなかったが、その統治の枠組みは後の漢以降の諸王朝にも受け継がれていく。
周代以来の血縁を基盤とした封建制(分封制)を廃止し、全国を36(後に増設され40余り)の郡に分割、その下にさらに県を置く二段階の地方行政制度を導入した。丞相李斯の献策によるとされ、諸侯に土地を分け与えて世襲させる旧来の方式を排除することで、地方勢力が独自の軍事力を蓄えて中央に反旗を翻す危険を未然に防ぐ狙いがあった。郡には郡守(行政)・郡尉(軍事)・郡監(監察)という三権が分立する官職が置かれ、いずれも皇帝が任免する官僚が務め世襲は認められなかった。この制度は秦の滅亡後も漢以降の歴代王朝におおむね継承され、多少の変遷を経ながらも中国における中央集権的な地方統治の基本形として長く機能し続けることになる。
将軍蒙恬に命じて匈奴を北方へ退けた上で、戦国時代に燕・趙・秦などが個別に築いていた防壁を連結・修築し、西は臨洮(現・甘粛省)から東は遼東に至る大規模な防衛線を築き上げた。工事には全国から徴発された数十万人ともいわれる民衆が動員され、過酷な労役により多くの犠牲者を出したと伝えられ、これが秦への民衆の不満を高めた一因ともされる。「孟姜女泣長城」(夫を長城建設で失った女性が城壁を泣き崩したという伝説)はこの労苦を象徴する説話として後世広く語り継がれている。現存する秦代の城壁遺構は少なく、現在観光地として知られる長城の多くは後代、特に明代に大規模に改修・増築された部分であるが、この時に定まった北方防衛線という構想そのものは以後の歴代王朝にも受け継がれていった。
丞相李斯の提言により、医薬・占卜・農業に関する実用書と秦の記録を除く諸国の史書や儒家の経典などを焼却させ、思想・言論を統制しようとした事件である。翌年には、方士が不老不死の仙薬を得られなかったことへの始皇帝の怒りを発端に、皇帝を批判したとされる儒者・方士数百人を生き埋めにしたと『史記』は伝えている。この二つの弾圧はあわせて「焚書坑儒」と呼ばれ、以後の儒教社会において始皇帝が暴君として断罪される最大の根拠の一つとなった。ただし焼却の対象や坑儒の実態については後世の誇張も指摘されており、近年の研究では規模や性格をめぐって様々な議論がなされている。陝西省西安近郊の臨潼には、伝承上この坑儒が行われた地とされる「坑儒谷」が旧跡として伝わっている。
辺境警備に徴発された農民陳勝・呉広らの一団が、大雨で期日に間に合わなくなり法により処刑される運命に直面したことから、「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王侯や将軍・宰相に生まれながらの身分の違いなどあろうか)」の言葉とともに蜂起した事件である。反乱はまたたく間に各地へ広がり、陳勝は自ら「張楚」を名乗って一時は独立政権を樹立するまでに至った。挙兵からわずか半年ほどで陳勝・呉広自身は部下の裏切りにより落命し反乱そのものは鎮圧されるが、これをきっかけに項羽・劉邦をはじめとする各地の反秦勢力が次々と挙兵し、秦崩壊への流れを決定づけることになった。中国史上初めて農民が主体となって王朝に反旗を翻した事件として位置づけられ、後世「陳勝・呉広の乱」は農民反乱の象徴的先例として繰り返し言及されることになる。
反秦勢力の中心となった項羽と劉邦のうち、先に関中へ入り秦の都咸陽を占領したのは劉邦であった。遅れて到着した項羽はこれに激怒し、鴻門で開いた酒宴に劉邦を招く。席上、項羽の参謀范増は剣舞に見せかけて劉邦を暗殺しようと図るが、劉邦配下の樊噲らの機転により劉邦は虎口を脱することに成功したと『史記』は伝えており、この「鴻門の会」は以後、中国史上屈指の緊迫した会見として語り継がれている。一方、秦帝国そのものは、宦官趙高による専横と二世皇帝胡亥の暗殺、これに続く三世王子嬰の即位という混乱の末、子嬰が劉邦に降伏したことで建国よりわずか15年で滅亡した。その後、項羽と劉邦は天下の覇権を争う楚漢戦争へと突入し、最終的に勝利した劉邦が漢王朝を開くことになる。
秦滅亡後に勃発した項羽との数年に及ぶ楚漢戦争を制した劉邦は、垓下の戦いで項羽を追い詰めて自害させ、紀元前202年に皇帝に即位して漢王朝を開いた。農民出身という中国史上異例の低い身分から身を起こし皇帝の座にまで昇り詰めた点は、以後の中国史における「布衣の天子」の先駆例として繰り返し語られることになる。当初は洛陽に都を置いたが、まもなく関中の要害の地である長安(現・西安)へ遷都し、秦の旧制度を引き継ぎながらも一部に封建制を復活させる郡国制を採用するなど、統治体制を模索した。功臣であった韓信・彭越・英布ら諸侯王は建国後まもなく次々と粛清され、皇帝権力の強化が図られていく。劉邦が築いた漢王朝は前漢・後漢を合わせて400年余りにわたって続き、以後の中国人が自らを「漢民族」「漢字」と呼ぶ淵源ともなった。
劉邦の皇后であった呂雉(呂后)は、劉邦の死後に幼い恵帝を擁して実権を握り、恵帝の死後もみずからの一族である呂氏の諸侯を次々と要職に就けて専横を強めていった。政敵であった劉邦の寵妃戚夫人とその子を惨殺した逸話は、呂后の苛烈な人物像を伝えるものとして後世に広く知られている。紀元前180年に呂后が没すると、劉氏の重臣たちと軍を掌握していた太尉周勃・丞相陳平らが結束してクーデターを起こし、呂氏一族を一掃した。その後、劉邦の子のうち温厚とされた代王劉恒が諸大臣の合議によって皇帝に迎えられ、文帝として即位する。文帝とその子景帝の治世は倹約と休養政策により国力が大きく充実し、「文景の治」と呼ばれる前漢屈指の安定期を築くことになった。
景帝の御史大夫晁錯が諸侯王の領地を削減する「削藩策」を進めたことに反発し、呉王劉濞を中心に楚・趙など七つの諸侯国が連合して反乱を起こした事件である。晁錯は反乱の口実を絶つために処刑されるが反乱はおさまらず、朝廷は将軍周亜夫を派遣して鎮圧にあたらせ、挙兵からわずか三か月ほどで反乱軍は壊滅した。この結果、反乱に加わった諸侯国は次々と取り潰され、あるいは大幅に領地を削減されて、諸侯王の勢力は決定的に弱体化することとなった。以後、諸侯国の官吏任命権も中央が握るようになり、劉邦以来続いていた郡国制は事実上郡県制に近い中央集権体制へと移行していく。この事件は前漢の中央集権化が完成へ向かう大きな画期として位置づけられている。
16歳で即位した武帝は、54年に及ぶ在位期間を通じて前漢の国力を頂点にまで押し上げた皇帝である。対外的には衛青・霍去病らの将軍を用いて長年脅威であった匈奴を北方へ大きく退け、南越や朝鮮半島の衛氏朝鮮を征服するなど、漢の版図をかつてなく拡大した。内政面では郡国制下で依然力を持っていた諸侯王の勢力を「推恩の令」により実質的に解体し、塩・鉄の専売制など国家財政の強化策も次々と打ち出している。学問の面では董仲舒の献策を容れて儒学を国家の正統思想とし、張騫の派遣によって西域への道も開かれるなど、政治・軍事・思想のあらゆる面で漢代の枠組みを決定づけた治世であった。一方で度重なる外征と大規模事業は国庫を大きく消耗させ、晩年には各地で農民反乱が頻発するなど、その積極政策の反動も生じることになる。
匈奴を挟撃する同盟相手を求めて大月氏へ向かった張騫であったが、道中で匈奴に捕らえられ十年以上抑留されるなど苦難の連続であった。ようやく脱出して大月氏にたどり着いたものの、すでに匈奴と戦う意思を失っていた大月氏から同盟の約束は得られず、当初の外交目的そのものは達成できなかった。しかしこの旅を通じて張騫がもたらした西域諸国に関する詳細な地理・物産・風俗の情報は、武帝の西域政策に決定的な影響を与え、以後の西域経営と交易路開拓の出発点となった。この交易路は後に「シルクロード(絹の道)」と呼ばれるようになり、中国と中央アジア・西アジア、ひいてはローマまでをも結ぶ東西交流の大動脈として機能していくことになる。張騫自身も帰国後に再度西域へ派遣されるなど、生涯を通じて漢の対外交流の礎を築いた人物として評価されている。
儒学者董仲舒が武帝に上奏した「天人三策」の中で、儒学以外の諸学派を退け儒学のみを国家の正統な学問とすべきと説いたことを契機に、儒学が事実上の国教としての地位を確立していった出来事である。董仲舒は陰陽五行説を取り込みながら儒学を再構成し、天子の統治を天の意思と結びつける「天人相関説」を唱えて、皇帝権力に理論的な裏付けを与えたことでも知られる。武帝はこの献策を受けて五経博士を置き、官吏登用においても儒学の素養が重視されるようになったことで、儒学は単なる一学派から国家運営を支える体制教学へと変質していった。この転換は、それまで諸子百家が並び立っていた思想状況を大きく塗り替えるものであり、以後2000年近くにわたり中国の政治・社会・教育のあり方を規定し続けることになる。ただし在野での学問の多様性自体が完全に失われたわけではなく、道家・法家的な統治手法も実務面では併用され続けた点には留意が必要である。
前漢の元帝の皇后王政君の甥にあたる王莽は、外戚として長年にわたり朝廷内で権勢を築き、平帝の死後は幼い孺子嬰を摂政として実権を掌握した。やがて各地から瑞祥(吉兆)が相次いで奏上されるという形式を整えたうえで、紀元8年に孺子嬰から禅譲を受けて皇帝に即位し、国号を「新」と定めて前漢を終わらせた。王莽は儒学の経典、特に『周礼』に描かれた周代の理想的な統治を復興することを掲げ、次々と急進的な改革に着手していく。学識に優れ清廉な人物として当初は高く評価されていたが、即位後の改革は現実離れしたものが多く、かえって社会の混乱を深める結果を招くことになった。中国史上、禅譲という平和的な形式によって王朝が交代した最初期の事例としても知られている。
王莽は『周礼』が説く理想を実現しようとして、全国の土地を「王田」と称して国有化し私的な売買を禁じたほか、奴婢の売買も制限するなど、急進的な社会経済改革を次々と断行した。貨幣制度についても、それまで流通していた五銖銭を廃止して独自の新貨幣を発行し、その後も短期間のうちに何度も貨幣の種類や交換比率を改めるという混乱した政策を繰り返した。これらの改革は理念こそ壮大であったものの現実の経済実態を無視したものが多く、かえって流通の混乱と物価高騰を招き、農民や商人など社会のあらゆる層から強い反発を買うことになった。結局、王田制はわずか数年で撤回に追い込まれ、度重なる貨幣改鋳も民衆生活を疲弊させるだけに終わり、王莽政権に対する不信を決定的なものにしていく。この時期に鋳造された「一刀平五千」「布泉」などの新貨幣は、意匠の美しさから現在も貨幣史上の逸品として知られている。
度重なる貨幣改鋳による経済混乱に加え、黄河の氾濫による飢饉が重なった山東地方で、樊崇を中心とする農民たちが蜂起した反乱である。敵味方を区別するため眉を赤く染めたことからこの名で呼ばれるようになったと伝えられ、当初は食料の略奪を目的とした素朴な集団であったが、新への不満を背景に急速に勢力を拡大していった。新の正規軍をたびたび打ち破りながら勢力圏を広げ、後には長安にまで進撃して一時的に政権を樹立するに至るが、明確な統治の理念や体制を欠いていたため長くは続かなかった。最終的には後漢を建てた光武帝劉秀の勢力に降伏し、反乱そのものは終息する。緑林の乱とともに、新末の社会混乱を象徴する二大農民反乱として位置づけられている。
湖北省の緑林山を拠点に、王匡・王鳳らが飢饉に苦しむ農民を集めて蜂起した反乱で、赤眉の乱とほぼ同時期に発生し新末の混乱を加速させた勢力の一つである。当初は山中に立てこもる小規模な集団に過ぎなかったが、疫病の流行を機に勢力が分散したのち、その一部が後に劉秀・劉縯兄弟ら漢王室の血を引く豪族と結びついて政治的な性格を強めていった。これにより緑林軍は単なる流民集団から新打倒を掲げる反乱勢力へと変質し、更始帝劉玄を擁立して一時的な政権を樹立するまでに至る。この緑林系の勢力こそが、後に光武帝として即位する劉秀が頭角を現す母体となった点で、後漢建国史における重要な位置を占めている。新末の動乱は、赤眉・緑林という二つの反乱勢力の消長を軸に展開していったといえる。
更始帝政権のもとで頭角を現しつつあった劉秀が、王莽が編成した数十万ともいわれる大軍をわずか一万に満たない寡兵で打ち破った戦いである。昆陽城に籠城する味方を救援するため劉秀はみずから決死の突撃を敢行し、さらに暴風雨などの偶然も重なって新軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を被ったと伝えられる。この敗北により新の主力軍事力は事実上失われ、各地の反乱勢力の勢いを止める術を王莽政権は失うことになった。中国史上でも屈指の寡兵による大逆転劇として知られ、この戦いでの活躍が劉秀の名声を大きく高め、後の後漢建国への足がかりとなった点でも重要な戦いである。新にとってはこの敗戦が事実上の命取りとなり、以後政権は急速に瓦解へと向かっていく。
昆陽の戦いでの大敗を経て新政権の権威は完全に失墜し、更始帝配下の軍勢が長安に迫ると都は陥落、王莽は宮中に追い詰められて殺害された。その遺体は怒った民衆によって切り刻まれたと伝えられ、最後まで理想を貫こうとした皇帝の末路は凄惨なものであった。こうして紀元8年の建国からわずか15年で新王朝は滅び、中国は再び前漢以来の「漢」の国号を掲げる勢力によって統一へ向かうことになる。もっとも新の滅亡後もただちに安定が回復したわけではなく、更始帝政権も内紛によりまもなく崩壊し、群雄割拠の状態がしばらく続いた。最終的にこの混乱を収めたのが緑林軍出身の劉秀であり、紀元25年に彼が皇帝に即位して後漢を開くことで、ようやく漢王朝の再興が果たされることになる。
新末の動乱の中で緑林軍から頭角を現した劉秀は、昆陽の戦いでの勝利などを経て諸勢力をまとめ上げ、紀元25年に皇帝に即位して漢王朝の再興を宣言した。前漢の高祖劉邦から数えて九世の子孫にあたるとされるが、即位当初の実際の勢力基盤は乏しく、その後十数年をかけて各地に割拠する群雄を次々と平定し、ようやく中国全土の再統一を果たすことになる。都は前漢の長安ではなく洛陽に定められたため、以後の時代は前漢と区別して「後漢」(または都の位置から東漢)と呼ばれる。即位後は度重なる戦乱で疲弊した社会を立て直すため、租税の軽減や奴婢の解放、官制の整理などの内政に力を注ぎ、その治世は「光武中興」と呼ばれる安定期として評価されている。武力による統一と柔軟な内政を両立させた統治手腕は、後世の皇帝たちの一つの模範ともされてきた。
歴史書『漢書』の編纂で知られる班固の弟である班超は、匈奴に対抗するための使節団の一員として西域に派遣されたのを機に、以後30年近くにわたり現地で活動を続けた人物である。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事で知られるように、少人数の従者とともに大胆な行動で西域諸国を次々と漢に服属させ、最終的には西域都護(西域統治の最高責任者)に任じられて広大な地域に影響力を及ぼした。武力による征服よりも、諸国間の対立関係を巧みに利用した外交交渉によって勢力を広げた点が班超の統治の特徴とされ、これにより一時中断していたシルクロード交易路の安定が回復した。晩年には部下の甘英を遠くローマ帝国(大秦)へ向けて派遣しようとするなど、当時の中国人が持ち得た西方世界への関心の広がりを示す逸話も残されている。班超の西域経営は、前漢の張騫が切り開いた交易路を後漢の時代においても維持・発展させた重要な事業として位置づけられている。
それまでも紙に類するものは存在したが、高価であったり書写に適さなかったりと実用性に乏しかった。宦官として宮廷に仕えた蔡倫は、樹皮・麻くず・ぼろ布・漁網といった身近で安価な材料を組み合わせて改良を重ね、薄く均質で書写に適した実用的な製紙法を確立したと『後漢書』は伝えている。この製法は皇帝に献上されて高く評価され、以後「蔡侯紙」と呼ばれて宮廷から民間へと徐々に普及していった。紙の普及によって、それまで竹簡・木簡や高価な絹布に頼っていた文書の記録・伝達が格段に容易になり、学問・行政・文化のあらゆる面での情報流通が飛躍的に進むことになる。この製紙技術は後にシルクロードを通じて西方へも伝わり、8世紀にはイスラム世界、さらに12世紀頃にはヨーロッパにも伝播して、世界の文明史に計り知れない影響を及ぼす発明となった。
後漢中期以降、幼少の皇帝が相次いだことにより外戚と宦官が交互に実権を握る政治構造が定着し、これに対して清廉な官僚や太学の学生らが批判の声を上げるようになっていた。彼らは自らを「清流」と称し宦官勢力を「濁流」として厳しく非難したが、これに反発した宦官側の讒言により、166年(第一次)と169年(第二次)の二度にわたり、批判勢力の官僚・学者が投獄・処刑・終身禁錮などの弾圧を受ける事件が起こった。禁錮とされた者は生涯にわたり官職に就くことを禁じられ、この処分は本人だけでなく門人や親族にまで及ぶ厳しいものであったと伝えられる。この弾圧により、腐敗した宦官政治を是正しうる健全な官僚勢力が政界から排除される結果となり、後漢の統治機構は自浄能力を失っていった。この事件は後の黄巾の乱に至る社会不安の深刻化と、後漢の急速な衰退を招いた重要な要因の一つとして位置づけられている。
宦官政治や度重なる天災による社会不安を背景に、張角が創始した宗教結社「太平道」の信徒たちが中心となって蜂起した大規模な農民反乱である。信徒は目印として黄色い布を頭に巻いたことから「黄巾」と呼ばれ、「蒼天已死、黄天当立(漢の天はすでに死し、新たな黄天の世が立つべし)」というスローガンを掲げて、短期間のうちに華北一帯に反乱を広げた。朝廷は皇甫嵩・盧植・朱儁ら諸将を派遣して鎮圧に当たらせ、指導者張角も病死したことで反乱の主力は比較的早期に制圧されたが、その後も各地で残党の蜂起が長く続いた。この反乱の鎮圧過程で地方に軍事権を持つ実力者、後に群雄と呼ばれる存在が各地に台頭し、中央の統制は事実上失われていくことになる。黄巾の乱は後漢滅亡と群雄割拠、そして三国時代への幕開けを告げる画期的な事件として位置づけられている。
黄巾の乱以降、事実上有名無実化していた後漢王朝であったが、最後の皇帝献帝は長らく実権を握った曹操の庇護(あるいは監視)のもとで名目上の帝位を保ち続けていた。220年に曹操が病没すると、その地位を継いだ子の曹丕は献帝に迫って禅譲という形式を取らせ、みずから皇帝に即位して魏を建てた。これにより高祖劉邦の建国以来、前漢・後漢を通じて400年余り続いた漢王朝は名実ともに終焉を迎えることになる。禅譲を受けた献帝は殺害されることなく山陽公に封じられ、その後も比較的穏やかな余生を送ったと伝えられており、この処遇は後の王朝交代における一つの先例ともなった。曹丕の即位に前後して劉備・孫権もそれぞれ皇帝を称するようになり、ここに魏・蜀・呉が並び立つ三国時代が幕を開けることになった。
華北をほぼ統一した曹操は、南下して荊州を制圧した勢いのまま長江を渡り天下統一を目指すが、危機感を強めた孫権と、荊州を追われて身を寄せていた劉備が同盟を結んでこれに対抗した。兵力では圧倒的に優勢であった曹操軍であったが、慣れない船上戦や疫病の流行に苦しめられていたとされ、周瑜配下の黄蓋が偽りの降伏を装って接近し火船を放つ奇計により、長江に停泊していた曹操の水軍は大混乱に陥って壊滅的な打撃を受けたと伝えられる。この敗北により曹操は華北へ撤退を余儀なくされ、南方への勢力拡大の野望はここで頓挫することになった。結果として曹操は華北を、孫権は江南を、劉備は荊州・後の益州を、それぞれ確保する形勢が固まり、これが魏・呉・蜀による三国鼎立の構図を決定づける転機となった。この戦いは『三国志演義』において諸葛亮や周瑜の智謀が縦横に描かれる最大の見せ場の一つとされ、後世の中国文化に絶大な影響を与え続けている。
父曹操は生涯皇帝を称することなく後漢の丞相・魏王として実権を握るにとどまったが、その死後まもなく後を継いだ曹丕は献帝に禅譲を迫り、220年に皇帝へ即位して魏を建てた。都は後漢以来の洛陽に置かれ、父の代から積み重ねられてきた華北統一の実績を土台に、名実ともに新王朝としての体裁を整えることになる。曹丕は文才にも優れた人物として知られ、みずから著した文学論『典論』論文篇は中国最初期の本格的な文学評論として高く評価されている。魏の建国を皮切りに、翌221年には劉備が蜀漢を、222年には孫権が呉を、それぞれ皇帝を称して独立を宣言し、ここに三国が並び立つ時代が正式に幕を開けることになった。魏は後の265年に司馬炎に禅譲するまでの約45年間、三国のうち最大の国力を誇る国として華北を統治し続けた。
前漢の景帝の子孫を称する劉備は、若くして各地を転戦しながらも独自の勢力基盤を持てずにいたが、諸葛亮を軍師に迎え荊州・益州を確保したことでようやく確固たる地盤を築いた。221年、曹丕の魏建国と後漢滅亡の報を受けると、劉備は漢王室の正統な後継者を自任して皇帝に即位し、成都を都に蜀(蜀漢)を建てた。これにより自らを漢の正統な継承者と位置づけ、簒奪者と見なす魏に対する対決姿勢を鮮明にしたのである。即位直後には義兄弟であった関羽の仇討ちを名目に呉へ出兵するが、夷陵の戦いで陸遜率いる呉軍に大敗を喫し、まもなく病没してしまう。劉備の死後は幼い劉禅が後を継ぎ、丞相諸葛亮が全権を委ねられて国政を主導していくことになる。
孫権は父孫堅、兄孫策が江東の地に築いた勢力基盤を若くして受け継ぎ、周瑜・魯粛・呂蒙といった有能な家臣団の補佐を受けながら江南の支配を着実に固めていった。赤壁の戦いや、関羽から荊州を奪った戦いなど、魏・蜀それぞれとの間で巧みに離合集散を繰り返しながら自国の勢力を保った点に孫権の外交手腕がうかがえる。222年にはまず「呉王」を称し、229年に至って正式に皇帝に即位、建業(現・南京)を都と定めて名実ともに三国の一角を占める国家として確立した。江南地方の開発を積極的に推進したことは、それまで政治の中心から離れていた長江以南の経済発展を促し、後世の中国における南北の経済的重心の移動にもつながる先駆けとなったと評価されている。孫権の治世は三国の君主の中でも最も長く、その安定した統治により呉は三国中最後まで存続する国となった。
劉備の死後、丞相として蜀漢の全権を委ねられた諸葛亮は、国力で大きく劣る魏に対して「漢室の再興」を掲げ、227年の『出師表』を皮切りに以後たびたび北伐を敢行した。234年の第五次北伐では、渭水南岸の五丈原に布陣して魏の司馬懿と長期にわたり対峙するが、決定的な戦機をつかめないまま両軍のにらみ合いが続いた。諸葛亮は屯田策により長期戦に備えるなど周到な準備を進めていたが、過労が重なったためか陣中で病に倒れ、そのまま没したと伝えられている。総司令官を失った蜀軍はやむなく撤退し、これ以後、蜀漢が魏に対して大規模な攻勢に出ることは事実上なくなった。諸葛亮の忠誠と非業の最期は、後世「鞠躬尽瘁、死して後已む(力の限りを尽くし、死に至るまでやめない)」という言葉とともに、理想的な忠臣の姿として長く語り継がれることになる。
諸葛亮の死後、姜維がその北伐路線を受け継いで魏への攻勢を続けたが、大きな戦果を挙げられないまま国力をいたずらに消耗させ、蜀漢の政治は次第に宦官黄皓の専横などにより乱れていった。263年、魏の実権を握っていた司馬昭は鄧艾・鍾会らに大軍を率いさせて蜀漢征討に乗り出し、鄧艾の部隊が険しい山道を踏破して成都に迫る奇襲策を成功させると、皇帝劉禅はほとんど抵抗することなく降伏を選んだ。これにより劉備の建国から43年で蜀漢は滅亡し、三国の一角が初めて消え去ることになった。降伏後、魏に移された劉禅が「この地の楽しさを思い、蜀のことなど思い出さない(楽不思蜀)」と語ったという逸話は、亡国の君主の暗愚さを象徴する故事として後世広く知られている。蜀漢の滅亡はまもなく訪れる魏晋交代、そして呉の滅亡による三国時代終焉へと続く一連の流れの端緒となった。
魏では司馬懿・司馬師・司馬昭の三代にわたり実権が徐々に司馬一族へと移り、263年の蜀漢征討の成功で司馬昭の権威は決定的なものとなっていた。その子司馬炎は266年に魏の元帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、国号を「晋」と定めて洛陽を都とした。かつて曹丕が後漢献帝から禅譲を受けて魏を建てた経緯を、今度は司馬氏が魏に対して踏襲する形となり、権力の簒奪が形式的な「禅譲」を経て行われるという後漢末以来の政権交代のパターンがここでも繰り返されることになった。即位当初はまだ南に呉が独立を保っていたため天下は完全には統一されておらず、司馬炎はその後も呉への圧力を強めながら統一の機会をうかがい続けた。西晋の建国は、後漢末以来続いてきた分裂状況にひとまず終止符を打つ布石となった重要な出来事である。
280年、西晋は王濬率いる水軍を長江に進めるなどして最後まで残っていた呉を攻め滅ぼし、後漢末の黄巾の乱以来約1世紀近くにわたり分裂していた中国をついに再統一した。三国鼎立の一角を占め続けた呉の滅亡により、魏・蜀・呉それぞれが独自の年号や制度を掲げて並び立った三国時代は名実ともに終わりを告げることになる。統一を果たした武帝司馬炎は占田・課田法など農地制度の整備や税制の改革を進め、一時的には社会が落ち着きを取り戻す局面も見られた。しかしその一方で武帝は多数の皇族を各地に王として封じて軍事力を持たせる政策をとっており、これが後に皇族同士の権力争いを招く火種として温存されることになる。中国が再びひとつにまとまった喜びも束の間、統一からわずか十数年でこの火種は現実の内乱へと発展し、西晋の安定は長くは続かなかった。
西晋の武帝が没した後を継いだ恵帝は暗愚であったと伝えられ、その皇后賈南風が実権を握ろうとしたことをきっかけに、各地に封じられていた皇族の諸王が次々と皇位・権力をめぐる争いに介入していった。汝南王・楚王・趙王・斉王・長沙王・成都王・河間王・東海王ら計八人の王が入り乱れて争ったことから「八王の乱」と呼ばれ、291年の勃発から306年頃まで断続的に10年以上にわたって続く長期の内乱となった。この争乱では首都洛陽をはじめ各地が幾度も戦火に見舞われ、諸王はしばしば北方や西方の異民族の軍事力を自陣営に取り込んで戦ったため、結果的に異民族勢力が華北の政治・軍事に深く関与する契機を与えることにもなった。内乱の過程で西晋の統治機構と経済力は急速に消耗し、せっかく達成された天下統一の成果はわずか数十年で無に帰していくことになる。この混乱こそが、続く五胡十六国という異民族政権乱立の時代を招く直接の背景となった。
八王の乱で西晋の国力が著しく消耗する中、南匈奴の単于の血を引く劉淵は、八王の一人に軍事協力する形で勢力を蓄えたのち、304年に自立して皇帝を称し国号を「漢」(後に前趙と呼ばれる)と定めた。匈奴出身の劉淵があえて「漢」を名乗ったのは、自らを前漢・蜀漢の後継者と位置づけることで中国内の統治の正統性を主張しようとする意図があったとされる。この劉淵の自立を皮切りに、それまで西晋の統治下、あるいはその周辺で暮らしていた匈奴・鮮卑・羯・氐・羌という五つの異民族(五胡)が次々と華北各地で独自の政権を樹立していくことになる。西晋はこれら新興勢力の伸長を抑えるだけの軍事力をすでに失っており、華北の政治的主導権は急速に異民族政権の側へと移っていった。この動きはやがて西晋を滅亡に追い込み、以後1世紀以上にわたり華北で異民族政権が興亡を繰り返す五胡十六国時代へとつながっていく。
劉淵の後を継いだ劉聡は、将軍石勒らに命じて西晋への攻勢を強め、311年に都洛陽を包囲・陥落させた。この際、都では略奪と虐殺が横行し、西晋の皇帝懐帝は捕らえられて漢(前趙)の都平陽へ連行され、後に殺害されるという屈辱的な結末を迎えることになる。この事件は当時の元号にちなんで「永嘉の乱」と呼ばれ、多数の官僚・貴族やその配下の民衆が戦乱を逃れて江南へ大規模に避難する「衣冠南渡」と呼ばれる移住の波を引き起こした。この南への人口移動は、それまで開発の遅れていた江南地方における農業開発や経済発展を促す結果となり、後の中国における経済的中心の南方移動の出発点の一つともなったと評価されている。一方、洛陽を失った西晋の残存勢力は長安へと逃れて命脈を保とうとするが、その支配はすでに華北の一部にとどまるまでに縮小していた。
永嘉の乱で懐帝が連行された後、洛陽陥落を逃れた一部の皇族・重臣は長安で愍帝を擁立し、かろうじて西晋の命脈を保とうとした。しかし長安の防衛力はすでに乏しく、食糧も欠乏する中、316年に漢(前趙)の軍が再び攻め寄せると、愍帝はついに抵抗を諦めて降伏を選んだ。これにより280年の呉平定による天下統一からわずか37年で西晋は滅亡し、華北における統一政権は完全に失われることになった。愍帝もまた捕らえられて平陽に連行され、屈辱的な扱いを受けた末に処刑されたと伝えられている。西晋滅亡後、皇族の一人司馬睿が江南の建康で東晋を再建することで漢族王朝の命脈自体は保たれるが、華北の地は以後1世紀以上にわたり五胡十六国と呼ばれる異民族政権の興亡が続く分裂状態に置かれることになる。
西晋の皇族司馬睿は、匈奴系の漢(前趙)による洛陽陥落(永嘉の乱)を逃れて江南に渡り、建康(現在の南京)を都として東晋を建てた。琅邪の名門貴族王導ら江南に移った北来の士族の支持を得て政権基盤を固め、「王与馬、共天下(王氏と司馬氏が共に天下を治める)」と評されるほど貴族層の発言力が強い政治体制が築かれた。これ以降、華北は五胡と呼ばれる諸民族の政権が興亡を繰り返す一方、江南では漢族の伝統文化を保持した東晋が約一世紀にわたり存続することになる。移住してきた北方の人々により江南の開発が急速に進み、後の南朝文化の繁栄と経済的な重心の南下の出発点となった。
氐族出身の苻堅は前秦の第三代君主として即位すると、漢人の名宰相王猛を登用して内政改革と軍備増強を進め、前燕・前涼・代(拓跋部)などを次々に平定して華北のほぼ全域を統一するに至った。苻堅は異民族の融和を重視し、儒学の振興や仏教の保護(高僧道安の招聘など)にも力を入れたことで知られ、五胡十六国期の君主の中でも文治に意を用いた統治者と評される。王猛は死の間際、南の東晋を攻めるべきではないと諫めたと伝わるが、苻堅は統一の勢いに乗じて南征を決断することになる。
王猛の遺言に反し、苻堅は百万と称される大軍を動員して東晋征服を目指し南下したが、淝水(現・安徽省)で東晋の宰相謝安・将軍謝玄らが率いる寡兵の前に大敗を喫した。敗走する前秦軍の間では風の音や鶴の鳴き声さえ追撃の東晋軍と聞き誤ったと伝えられ、この故事から「風声鶴唳」「草木皆兵」という成語が生まれた。この敗北により苻堅の権威は急速に失墜し、前秦の統制下にあった諸民族が相次いで自立、華北は再び分裂状態へと逆戻りすることになった。結果として東晋は江南の独立を保ち、南北の分立という構図がその後さらに長く続く一因となった。
匈奴・鮮卑・羯・氐・羌という「五胡」と呼ばれる北方・西方の諸民族が中原に流入し、前趙・後趙・前燕・後秦・夏など数多くの政権を華北の各地で興しては滅ぼされることを繰り返した。「十六国」という呼称が定着しているが、実際にはこれよりも多くの政権が興亡しており、後世の歴史家崔鴻が代表的な十六の国家をまとめて呼んだことに由来するとされる。多くの政権は建国からわずか数十年で内紛や周辺勢力との抗争により滅び、安定した統治が続くことは稀であった。この混乱の時代を経て、5世紀前半に鮮卑拓跋部の北魏が徐々に華北を統一していくことになる。
東晋の実力者桓温は、荊州刺史としての軍事力を背景に三度にわたり華北への北伐を敢行し、一時は洛陽の奪還にも成功するなど軍事的な名声を高めた。しかし369年の第三次北伐では前燕を攻めるも枋頭の戦いで大敗を喫し、遠征は失敗に終わった。それでも桓温の権勢は衰えず、晩年には皇帝廃立を強行するなど専横を強め、簒奪をもくろんでいたとも言われるが、志半ばで病没したと伝わる。桓温のように軍事的功績を背景に朝廷の実権を握る武将の存在は、後に劉裕が禅譲によって東晋を滅ぼす先例ともなった。
寒門(低い家柄)出身ながら卓越した軍才で頭角を現した劉裕は、孫恩・盧循の乱の鎮圧や後秦への北伐成功などの実績を積み重ね、東晋の実権を掌握していった。420年、劉裕はついに幼帝恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝に即位し、国号を宋(劉宋)と定めたことで、司馬氏による約100年間の東晋の歴史が幕を閉じた。これ以降、江南では宋・斉・梁・陳という四つの王朝が交代する南朝の時代が始まり、華北の諸政権(北朝)と対峙する南北朝時代へと移行していく。武人出身者が禅譲という形式を用いて王朝を開くこのパターンは、以後の南北朝時代における政権交代の一つの型となった。
武将出身の劉裕が東晋の恭帝から禅譲を受けて即位し、国号を宋(劉宋)と定めたことで、南朝の時代が幕を開けた。劉裕は寒門(家柄の低い層)出身の人材登用を進めて貴族の特権に一定の制約を加えたが、即位からわずか2年で病没し、以後の劉宋の宮廷は皇族同士の骨肉の争いに見舞われることになる。南朝では以後、宋・斉・梁・陳という四つの王朝が約170年の間に次々と交代し、いずれも建康(現・南京)を都として漢族の伝統文化を継承していった。この間、江南では貴族文化と仏教文化が花開き、後の中国文化史における重要な蓄積がなされていくことになる。
鮮卑拓跋部が建てた北魏は、太武帝拓跋燾の治世下で夏・北燕・北涼など華北に残っていた諸政権を次々と平定し、439年についに五胡十六国時代以来続いた華北の分裂状態を終わらせた。これにより中国は江南の宋(劉宋)と華北の北魏が対峙する南北朝時代へと本格的に突入する。北魏は北方の遊牧民族柔然としばしば戦火を交え、この頃の国境防衛の様子は後に「木蘭辞」として語り継がれる、女性が男装して従軍したという物語の時代背景にもなったとされる。太武帝は晩年に仏教を弾圧する法難を起こしたことでも知られ、その反動から次代以降には仏教を篤く保護する政策へと転じていくことになる。
北魏の孝文帝は平城から中原の中心地洛陽への遷都を断行し、あわせて鮮卑族の服装・言語を中国風に改めさせ、皇族の姓を拓跋から元に改姓するなど急速な漢化政策を推し進めた。漢人官僚の登用や鮮卑・漢人間の通婚も奨励され、支配層の統治理念は次第に中国的な色彩を強めていくことになる。一方でこうした急激な変化は北方の辺境を守る保守的な鮮卑軍人層の反発を招き、後の六鎮の乱という大規模反乱の遠因になったとも指摘される。洛陽遷都に伴い、都近郊では新たな仏教石窟の造営も始まり、北魏仏教美術の新たな中心地が築かれていった。
南斉の一族であった蕭衍は南斉末の内紛に乗じて挙兵し、502年に禅譲を受けて梁を建国、後に武帝と称された。武帝は48年という南朝屈指の長期政権を築き、文学や仏教を篤く保護したことで知られ、皇太子蕭統が編纂を主導した詩文選集『文選』はこの時代の文化的達成を象徴する。仏教への傾倒は特に著しく、自ら出家して寺に入る「捨身」を四度にわたり行い、そのたびに臣下が莫大な資金を払って寺から迎え戻したと伝えられ、「皇帝菩薩」とも呼ばれた。しかし晩年の548年には投降してきた武将侯景の反乱を招き、都建康を包囲されて幽閉のうちに餓死したと伝わり、栄華を極めた治世は悲劇的な結末を迎えることになる。
六鎮の乱をはじめとする度重なる反乱で弱体化した北魏では、実力者の高歓と宇文泰がそれぞれ別の皇族を擁立して対立し、534年に東魏(鄴を都、高歓が実権)と西魏(長安を都、宇文泰が実権)へと分裂した。両政権はまもなくそれぞれ高氏の北斉、宇文氏の北周へと王朝交代し、以後も華北では激しい抗争が続くことになる。特に西魏・北周を支えた宇文泰は、関中・隴西の軍事貴族層(関隴集団)を組織化しており、この集団からは後の隋の楊氏や唐の李氏といった王朝創始者が輩出されることになる。北魏の分裂は、一見混乱の一場面に見えながらも、次の統一王朝の担い手を準備する重要な布石であったと評価される。
南朝最後の王朝陳は、皇帝陳叔宝(陳後主)が政務を顧みず享楽的な宮廷生活にふけったことで国力が著しく衰えており、自ら作ったとされる艶麗な楽曲「玉樹後庭花」は、後世亡国の音楽の代名詞として語られるようになる。589年、隋の大軍が長江を渡って建康に迫ると陳はほとんど抵抗できないまま降伏し、西晋滅亡以来約270年にわたり分裂していた中国は隋のもとに再統一された。これにより南朝・北朝と呼ばれた並立時代は終わりを告げ、江南の経済力・文化的蓄積と華北の軍事力・統治機構が一つの王朝のもとに統合されることとなった。南北朝期に培われた貴族文化や仏教文化の多くは、その後の隋唐帝国の文化的基盤として受け継がれていく。
北周の外戚として重きをなしていた楊堅は、幼い静帝から禅譲を受ける形で隋を建国し、文帝として即位した。楊堅もまた宇文泰が組織した関隴集団の出身であり、南北朝末期の軍事貴族層から統一王朝の創始者が生まれるという流れを体現する人物であった。文帝は即位後ただちに中央官制や税制の整備に着手し、後の南朝陳征服とあわせて約300年ぶりとなる中国統一への道筋をつけていく。なお皇后独孤氏は政治にも強い発言力を持ち、文帝が側室を持つことを厳しく戒めたという逸話が伝わっており、後宮のあり方としては当時としては異色であったとされる。
隋の文帝は将軍賀若弼・韓擒虎らに命じて長江を渡らせ、享楽的な生活で国力を落としていた南朝最後の王朝陳を攻めさせた。皇帝陳叔宝(陳後主)はほとんど組織的な抵抗ができないまま都建康で捕らえられ、南朝はあっけなく滅亡した。これにより西晋滅亡(316年)以来約270年、あるいは後漢末の分裂から数えればさらに長期間にわたって続いた中国の分裂状態がついに終わりを告げ、隋のもとで南北が一つの王朝に統合された。この統一によって江南の豊かな経済力と文化的蓄積が北の統治機構と結びつき、後の唐代における空前の繁栄を準備する基盤が形成されることになった。
隋の煬帝の時代、家柄によらず学識・才能を試験で測って官僚に登用する進士科が整備され、これが後世「科挙」と呼ばれる試験制度の実質的な確立とされる(文帝の時代にすでに類似の選抜試験の萌芽があったとも言われる)。従来、官僚登用は魏晋南北朝以来の九品中正制のもとで有力な貴族の子弟に有利な仕組みであったが、科挙の導入により建前上は家柄によらない人材登用の道が開かれることになった。この制度は隋・唐を経て整備が進み、後の宋代にはさらに公平性を高める工夫(糊名法など)が加えられ、清朝末期の1905年に廃止されるまで実に1300年以上にわたり中国の官僚登用の根幹であり続けた。科挙は中国のみならず、朝鮮やベトナムなど周辺諸国の官僚制度にも大きな影響を及ぼした。
煬帝は南北を結ぶ水運網の整備を目的に、既存の河川や運河を接続・拡張する大運河建設事業を推し進めた。永済渠・通済渠・邗溝・江南河などの区間が次々に開削され、洛陽を中心に北は涿郡(現・北京付近)、南は余杭(現・杭州)にまで至る一大水運網が完成した。この事業には数百万人ともいわれる民夫が徴発されたと伝わり、過酷な労役は民衆の疲弊と怨嗟を招き、隋末の反乱の一因になったとも指摘される。一方でこの運河は完成後、南方の豊かな穀物や物資を北の政治中心地へ運ぶ大動脈として機能し続け、後世の元代には大都(北京)へ直結する形に改修されるなど、現代に至るまで中国の経済を支える重要な水路であり続けている。
煬帝は高句麗を服属させるべく612年から613年、614年と三度にわたり大規模な遠征を敢行し、初回の612年には100万を超えるとも伝えられる空前の大軍を動員した。しかし高句麗の将軍乙支文徳の巧みな誘引作戦により薩水(清川江)付近で隋軍は壊滅的な敗北を喫し、生還できた兵はごくわずかであったと伝わる。度重なる遠征の失敗にもかかわらず煬帝は遠征を強行し続け、莫大な戦費と兵力の損失、そして遠征のための重税と労役は民衆の不満を極限まで高めることになった。613年には遠征中に重臣楊玄感が反乱を起こすなど、高句麗遠征の失敗は隋末の混乱を一気に加速させる直接の引き金となった。
晩年の煬帝は度重なる外征の失敗と各地で相次ぐ反乱を前に洛陽・長安を離れて江都(現・揚州)に逃れ、現実から目を背けるように享楽的な生活に浸っていたと伝えられる。もはや帰る場所を失いつつあった禁軍の将兵の間で不満が高まり、618年、将軍宇文化及らが反乱を起こして煬帝を殺害するに至った。これにより文帝の建国からわずか37年で隋は事実上崩壊し、各地の群雄が割拠する内乱状態に突入する。混乱の中で太原から挙兵した李淵が長安を制圧して煬帝の孫を一時擁立した後、まもなく禅譲を受けて自ら皇帝に即位し、新たに唐王朝を開くことになる。
太原の留守(地方長官)を務めていた李淵は、隋末の混乱に乗じて617年に挙兵し、間もなく長安を制圧すると、当初は煬帝の孫を皇帝に擁立して隋の存続を装った。しかし翌618年、江都で煬帝が殺害されたとの報に接すると自ら皇帝に即位し、国号を唐、都を長安と定めた。もっとも建国当初は王世充や竇建徳など各地に割拠する群雄が健在であり、これらを平定して実質的な中国統一を達成するまでにはなお数年を要した。この統一戦争では次男の李世民が各地を転戦して大きな軍功を挙げ、後の帝位継承争いの伏線ともなっていく。
皇太子李建成とその弟李元吉は、数々の軍功を挙げて声望を高める次男李世民を危険視し、暗殺を謀ったとされる。これを察知した李世民は626年、長安城の北門玄武門に伏兵を配して兄李建成と弟李元吉を殺害し、父高祖に迫って自らを皇太子とさせ、まもなく譲位を受けて太宗として即位した。骨肉の争いを経て即位した太宗であったが、諫言をいとわない名臣魏徴らを重用し、質素倹約と民力の休養に努めた結果、後世「貞観の治」と呼ばれる安定した善政の時代を築き上げることになる。この治世の様子は後に『貞観政要』としてまとめられ、以後の東アジア各地の為政者にとって理想的な統治の手本として長く読み継がれた。
唐建国当初、北方の東突厥は強大な軍事力を誇り、即位直後の太宗も一時は都長安近郊まで迫られ、屈辱的な和睦(渭水の盟)を結ばざるを得なかった。太宗はこの屈辱を糧に国力の充実を図り、630年には名将李靖に命じて陰山山脈方面から奇襲をかけさせ、東突厥の頡利可汗を捕らえてこれを滅ぼすことに成功した。この勝利により唐の国際的な威信は飛躍的に高まり、周辺の諸民族の君長たちは太宗を「天可汗(テングリ・カガン)」として共に推戴するようになったと伝えられる。以後、唐は東アジアにおける国際秩序の中心として、周辺諸国からの朝貢や留学生の受け入れなど活発な対外交流を展開していくことになる。
太宗の後宮に入り、後に高宗の皇后となった武則天は、高宗の死後に自ら政務を執る「臨朝称制」を経て、実子である中宗・睿宗を相次いで廃立し、690年にはついに国号を周と改めて自ら皇帝に即位した。中国史上唯一の女帝として君臨した治世では、密告や酷吏を用いた恐怖政治で反対派を厳しく弾圧する一方、科挙による人材登用を大きく拡大して身分によらない官僚の登用を進めるなど、後の開元の治につながる人材基盤を整えたとも評価される。晩年の705年には宰相張柬之らによる政変(神龍革命)で退位に追い込まれ、国号は唐に復されて息子の中宗が復位した。その治世に対する評価は現在も賛否が分かれるが、女性が皇帝の座に就いたという事実自体が中国史上極めて異例な出来事として記憶されている。
玄奘は当時国外への出国が禁じられていたにもかかわらず、より正確な仏典を求めて密かに国境を越え、西域や中央アジアの荒野を越えてインドに至る過酷な旅を敢行した。インドでは仏教教学の一大中心地であったナーランダ僧院で長期にわたり学び、帰国後の645年には持ち帰った膨大な経典の漢訳事業を国家的な規模で主導し、鳩摩羅什と並び称される中国仏教史上屈指の訳経僧となった。その旅の記録である『大唐西域記』は、当時の中央アジア・インドの地理や風俗を伝える第一級の史料としても高く評価されている。この命がけの旅の逸話は後世に大きく脚色され、明代の小説『西遊記』において三蔵法師が孫悟空らを伴いインドを目指す物語のモデルとなったことでも広く知られている。
晩年の玄宗は寵妃楊貴妃への寵愛にかまけて政務を顧みなくなり、その一族楊国忠と、平盧・范陽・河東の三節度使を兼ねる強大な軍事力を握った安禄山との対立が深まっていった。755年、安禄山は范陽で挙兵し、翌756年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、玄宗は蜀(四川)へ逃れる途上、馬嵬駅で兵士たちの要求により楊貴妃を自害させざるを得なかったと伝えられる。皇太子李亨は霊武で即位して粛宗となり、ウイグル(回紇)の援軍を得て長安・洛陽を奪還したが、反乱そのものは安禄山の死後も部将史思明らに引き継がれ、763年まで8年近くにわたって続いた。この大乱により華北の人口は激減し、律令制の根幹であった均田制・租庸調制は崩壊、乱後は各地に自立性の強い藩鎮(節度使)が割拠する体制が定着し、唐は「安史の乱」を境に繁栄の絶頂から緩やかな衰退へと向かうことになる。
黄巣の乱で一時は反乱軍に加わっていた朱全忠(朱温)は、後に唐に帰順して官軍として乱の鎮圧に貢献し、その過程で最も有力な節度使としての地位を築き上げた。903年には長安から洛陽への強制遷都を主導して宦官勢力を一掃し、904年には皇帝昭宗を暗殺して幼い哀帝を擁立するなど、唐朝廷を完全に傀儡化していった。そして907年、朱全忠はついに哀帝から禅譲という形式を取って帝位を奪い、国号を後梁と定めて自ら皇帝に即位した。これにより618年の建国から289年続いた唐王朝は名実ともに滅亡し、以後半世紀にわたり中国は五代十国と呼ばれる小国乱立の分裂時代へと突入することになる。
唐を滅ぼした朱全忠(後の太祖)は開封(汴州)を都として後梁を建てたが、その支配基盤は決して安定したものではなかった。即位からほどなく後継者争いが起こり、実子朱友珪が父を弑逆して帝位を奪う事件が起きるなど、建国当初から宮廷内部の権力闘争が絶えなかった。また河北方面では、唐から独立していた有力な藩鎮である晋王李克用・李存勗父子の勢力が根強く残っており、後梁は華北全域を完全に掌握することができないまま、慢性的な軍事的緊張にさらされ続けた。このように後梁は五代の最初の政権でありながら短命かつ不安定な統治にとどまり、以後約半世紀にわたって短命政権が交代を繰り返す五代十国時代の幕開けとなった。
晋王李克用の子李存勗は、父の遺言(三本の矢に託した宿敵討伐の誓い)を胸に勢力を拡大し、923年についに後梁を滅ぼして自ら皇帝(荘宗)に即位、国号を唐(後唐)と定めた。後唐はその後前蜀も併合し、五代の中で最も広い版図を築いた政権として知られる。しかし荘宗は芝居や音楽を深く愛好し、自ら俳優のように舞台に立って「李天下」と名乗ったと伝えられるほど政務を疎かにし、寵臣や宦官の専横も相まって朝廷内の不満が高まっていった。926年には近衛軍の反乱(興教門の変)により荘宗は殺害され、義兄弟の李嗣源(明宗)が新たに即位するなど、最大版図を誇りながらも後唐の政権基盤は終始不安定なままであった。
後唐の河東節度使であった石敬瑭は、朝廷から猜疑の目を向けられたことを機に反旗を翻し、自力での勝算に乏しかったことから北方の契丹(遼)の耶律徳光に軍事支援を求めた。この援助の代償として石敬瑭は燕雲十六州(現在の北京・大同を含む北方の要地)を契丹に割譲し、さらに契丹皇帝に対して臣下の礼を取り「児皇帝」と自称することまで受け入れたと伝えられる。936年、契丹の後ろ盾を得た石敬瑭は後唐を滅ぼして後晋を建て皇帝となったが、この時に手放した燕雲十六州は中国側にとって北方防衛の要となる山岳地帯を含んでおり、以後の中原王朝は長らく北方民族に対する天然の防壁を失うことになった。この失地は北宋の時代に至っても回復されず、遼・金との緊張関係や後の靖康の変に至る北方情勢の根本的な弱点として、実に400年以上後の明初まで尾を引くことになる。
契丹(遼)の南下によって後晋が滅ぼされ一時的に開封が占領されると、契丹軍の過酷な統治や略奪に対して中原の民衆・地方勢力の抵抗が各地で強まり、契丹軍はほどなく北方へ撤退を余儀なくされた。この混乱に乗じて河東節度使劉知遠が太原で皇帝を称し、契丹撤退後の開封に入城して後漢を建てた。しかし劉知遠は建国の翌年に病没し、跡を継いだ若い隠帝が重臣たちを次々と粛清しようとしたことで軍の実力者郭威の離反を招き、後漢はわずか4年というきわめて短い期間で崩壊することになった。五代の中でも後漢は最も短命な王朝であり、この政権の急速な瓦解が次の後周建国、さらには北宋の統一へとつながる連鎖の一齣となった。
後漢の重臣であった郭威は、若い隠帝から謀反の疑いをかけられ一族を殺害される事態に陥ったことを機に挙兵し、その最中に隠帝が乱兵により殺害されると、諸将に推戴される形で自ら皇帝に即位し後周を建てた。郭威は即位後、重税の軽減や流民の帰農を促す施策を進めて荒廃した華北の民生回復に努め、五代の歴代政権に比べて相対的に安定した統治基盤を築いたと評価される。実子を持たなかった郭威は、皇后の甥にあたる有能な養子柴栄(後の世宗)を後継者に指名しており、この人選が結果的に後周、さらには後の宋による中国再統一への道筋を用意することになった。短命な政権が乱立した五代十国の中にあって、後周の建国は次代の統一に向けた重要な転換点として位置づけられる。
後周の世宗柴栄は即位後、南は南唐から淮南の要地を奪い、北は契丹(遼)に対しても遠征を敢行して瀛州・莫州・易州を回復するなど、統一事業を積極的に推し進めた名君として知られる。内政面でも禁軍の精鋭化を進めて後の宋の軍事力の基盤を作ったほか、955年には仏教寺院の経済力を抑制する大規模な廃仏(三武一宗の法難の一つに数えられる)を断行し、寺院の銅像を鋳潰して貨幣不足の解消に充てるなど実務的な改革者でもあった。しかし燕雲十六州の回復を目指した北伐の途上で病を得て、959年、志半ばの39歳で急逝してしまう。幼い恭帝が後を継いだことで後周の権力基盤には空白が生じ、この状況が翌年、有力武将であった趙匡胤による皇帝擁立劇(陳橋の変)を招く直接の要因となった。
後周の若い恭帝の治世下、契丹と北漢の連合軍来襲の報を受けて出征した将軍趙匡胤は、開封近郊の陳橋駅まで進んだところで部下の将兵に擁立され、黄色い衣(皇帝の象徴とされる黄袍)を着せられて皇帝に推戴されたと伝えられる、いわゆる「陳橋の変・黄袍加身」の故事である。趙匡胤は軍を開封へと引き返させると、まだ幼い恭帝に迫って穏便に禅譲を受け、流血をほとんど伴わない形で自ら皇帝に即位した。この政権交代は、それまでの五代の各王朝交代でしばしば見られた殺戮や粛清を伴う激しい権力闘争とは対照的に、比較的平和的に進められたことが特徴とされる。趙匡胤はただちに国号を宋と定めて開封を都とし、この即位が約半世紀にわたり中国を分裂させてきた五代十国の混乱に終止符を打つ最終的な転機となった。
陳橋の変を経て即位した趙匡胤(太祖)は、後周から禅譲を受けて国号を宋と定め、開封を都とした。もっとも即位した時点では荊南・後蜀・南漢・南唐・呉越・北漢など十国の系譜を引く政権が各地になお存続しており、太祖とその弟太宗の二代にわたる約20年間の征服・帰順工作を経て、979年の北漢平定によりようやく実質的な中国統一が達成されることになる。太祖は即位当初から、武断政治によって王朝交代が繰り返された五代の教訓を踏まえ、軍人の力を抑えて文人官僚を重んじる文治主義への転換を明確に志向していた。この統一達成までの過程と並行して進められた文治体制の構築は、以後300年以上続く宋王朝の基本的な国是として定着していくことになる。
即位翌年の961年、太祖は石守信ら建国の立役者となった禁軍の有力将軍たちを酒宴に招き、自らも即位の経緯(黄袍加身)に触れながら、功績のありすぎる部下を持つ君主の不安を巧みに説いて聞かせたと伝えられる。翌日、意を汲んだ将軍たちは相次いで病を理由に辞職を願い出て兵権を返上し、太祖はその見返りに広大な田宅や皇族との縁組みといった手厚い待遇を与えたとされる。この巧みな話術と懐柔によって、唐末以来長らく中国を苦しめてきた軍閥割拠の温床となる兵権の私物化を、流血を伴わずに解消することに成功した。この一件を皮切りに、宋代には軍の指揮権と兵力動員権を分離する仕組みや文官による軍事監督の強化など、武断勢力の台頭を防ぐための諸制度が体系的に整えられていくが、これは同時に宋の軍事力を慢性的に弱体化させ、後の遼・西夏・金との抗争で苦戦を強いられる遠因になったとも評価される。
遼の聖宗とその母蕭太后が親征して大軍を南下させ、宋の都開封に近い澶州(現・河南省濮陽)の対岸にまで迫ると、宋の朝廷内では一時遷都して難を逃れるべきだとの意見も出るほどの動揺が広がった。しかし宰相寇準は皇帝真宗に親征を強く進言し、真宗自らが澶州城頭に姿を現したことで宋軍の士気は大いに高まり、遼の将軍蕭撻凜を城下で射殺するなど戦況は宋側にやや有利に傾いた。この情勢を受けて両国は和議を結び、宋と遼は兄弟の国として対等な関係を結ぶ一方、宋が毎年銀10万両・絹20万匹を「歳幣」として遼に贈るという条件で国境の現状維持が合意された(澶淵の盟)。この盟約は屈辱的な内容と評されることもあるが、実際には比較的小さな経済的負担と引き換えに、以後約120年間にわたる宋遼間の平和と活発な交易関係をもたらす結果となり、実利を重んじた外交解決の先例として評価されることもある。
財政悪化と冗官・冗兵・冗費という「三冗」問題、さらに遼・西夏への歳幣や防衛費の重い負担に苦しんでいた北宋中期、神宗に登用された王安石は「富国強兵」を掲げて青苗法・募役法・市易法・保甲法・将兵法など多岐にわたる急進的な改革(新法)を次々と実施した。これらの改革は国家財政の立て直しと軍事力強化を狙ったものであったが、地方での運用段階では農民や商人にかえって負担を強いる面もあり、司馬光(後に『資治通鑑』を編纂)ら旧来の制度を重んじる保守派官僚から激しい批判を浴びることになった。神宗の死後、幼帝を後見した太皇太后のもとで旧法党が政権を握ると新法はいったんほぼ全廃されるが、哲宗の親政開始後には再び新法派が実権を取り戻すなど、新法・旧法の党争は数十年にわたって一進一退を繰り返した。この長期化した党争は朝廷内の対立と内部消耗を深刻化させ、後世の一部の歴史家からは北宋が衰退へと向かう遠因の一つとみなされている。
遼の支配下で女真族を統率していた完顔阿骨打は、遼の圧政に対する不満を背景に女真諸部族を統一し、1114年の寧江州の戦いで遼軍を破ると急速に勢力を拡大した。翌1115年、完顔阿骨打は皇帝を称して国号を金と定め、会寧(上京、現・黒竜江省)を都として新王朝を樹立した。当初金は遼への抵抗勢力として台頭したにすぎなかったが、燕雲十六州の奪還を悲願としていた北宋の徽宗政権はこれに着目し、金と結んで南北から遼を挟撃する「海上の盟」を締結するに至る。しかしこの同盟は結果的に宋にとって「引き狼入室(狼を家に招き入れる)」となり、遼滅亡後まもなく金は矛先を宋自身に転じることになり、北宋滅亡(靖康の変)へとつながる重大な布石となった。
遼を滅ぼした金は、その勢いを駆って北宋との盟約を反故にし南下を開始した。1126年には早くも開封が包囲されるが、この時は宋側が多額の賠償金と領土割譲を条件に和議を結んでいったん囲みを解かせることに成功する(靖康元年)。しかし宋朝廷が約束した条件を十分に履行できなかったことなどから金軍は同年末に再び南下し、1127年についに開封は陥落した。皇帝欽宗とその父で書画・詩文に優れた文化人でもあった上皇徽宗をはじめ、皇族・后妃・官僚など数千人ともいわれる人々が金の捕虜として北方へ連行される屈辱的な結末を迎え、これは後世「靖康の変(靖康の恥)」と呼ばれる。欽宗の弟にあたる康王趙構だけは難を逃れて江南に落ち延び、後に高宗として即位して宋王朝の命脈を保つことになるが、都開封を含む華北の広大な領土は金の支配下に置かれることとなった。
靖康の変で徽宗・欽宗父子ら皇族の多くが金軍に連行されるという未曾有の国難のなか、難を逃れた第九子趙構が即位し高宗となる。当初は応天府(現・河南省商丘)で即位したが金軍の追撃を受けて南へ転じ、幾度もの避難を経て最終的に臨安(現・杭州)に落ち着いた。臨安はあくまで仮の都「行在」と位置づけられ、正式な遷都は宣言されなかったが、これは失地回復の意志を示す政治的建前であったとされる。江南は唐末以来の開発で農業生産力・商業経済が高く、南宋はこの地の富を背景に北宋を凌ぐほどの経済的繁栄を築いていくことになる。
岳飛は農民出身ながら卓越した統率力で「岳家軍」と呼ばれる精鋭を育て上げ、金軍を幾度も撃退して北伐を目前にしていたとされる。しかし主戦派の岳飛は、金との和平を優先する高宗・宰相秦檜の路線と対立し、「莫須有(あったかもしれぬ)」というあいまいな罪状のもとで投獄され、獄中で命を落とした。同年結ばれた紹興の和議では、淮河を国境として南宋が金に対し臣下の礼をとり、毎年多額の銀・絹を歳幣として贈ることが定められ、南宋は屈辱的ながらも長期の平和を得ることになる。岳飛の死は後世「忠臣が奸臣に陥れられた悲劇」として語り継がれ、彼を祀る杭州西湖畔の岳王廟には、今も秦檜夫妻を象った跪像が置かれ、参拝者から唾を吐きかけられる対象になっているという逸話が残る。
南宋の思想家朱熹は、北宋の程顥・程頤兄弟が説いた学統を継承し、「理」と「気」の関係を軸に宇宙の成り立ちから人間の倫理までを体系的に説明する壮大な哲学体系を築き上げた。彼が編んだ『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書に対する注釈書『四書集注』は、元代以降の科挙において公式の解釈として採用され、以後約600年にわたり官吏登用試験の根幹をなす存在となった。晩年には江西の白鹿洞書院を再興して自ら講学にあたり、規律と師弟関係を重んじる書院教育の模範を確立したことでも知られる。この朱子学は李氏朝鮮では国教的な地位を得て両班社会の倫理規範となり、日本でも江戸幕府の官学として林羅山らによって受容されるなど、東アジア全域の思想・統治観に長期にわたる影響を及ぼすことになった。
チンギス・ハン以来急速に台頭したモンゴル帝国の攻勢を受け、かつて北宋を滅ぼした金は本拠を汴京(開封)からさらに南の蔡州へと追い詰められていた。南宋は北宋滅亡の宿怨を晴らす好機と捉え、モンゴルと同盟を結んで金を挟撃する「聯蒙滅金」の道を選ぶ。1234年、蔡州が陥落すると金の最後の皇帝哀宗は自害し、約120年続いた金は滅亡した。しかしこの選択は、約100年前に北宋が遼を滅ぼすため金と結び、結果的に金に滅ぼされた「聯金滅遼」の失敗をなぞるものであったとも評され、南宋は強大なモンゴルと直接国境を接することになり、以後の存亡の危機を早める皮肉な結果を招くことになった。
クビライの命を受けた元の将軍伯顔(バヤン)率いる大軍が長江を渡って南下し、南宋の防衛線は各地で相次いで崩壊していった。宰相文天祥らの抗戦の努力もむなしく、1276年にはわずか5歳であった恭帝と謝太后が降伏し、都臨安は無血のうちに元軍の占領するところとなる。捕らえられた文天祥はその後も元への服属を拒み続け、獄中で詠んだ「正気の歌」は後世忠節の象徴として広く愛誦されることになった。臨安陥落後も陸秀夫・張世傑ら忠臣たちは幼い端宗、続いて衛王昺を新たな皇帝として擁立し、華南沿岸を転々としながらなお三年近くにわたり抵抗を続けることになる。
1279年、広東沖の崖山(現・広東省江門市新会区)において、張世傑の率いる南宋水軍と元将張弘範の艦隊が最後の決戦に及んだ。数の上でも戦術面でも劣勢であった南宋軍は総崩れとなり、丞相陸秀夫はもはやこれまでと悟ると、わずか8歳の幼帝衛王昺を背負って海に身を投げたと伝えられる。この後を追うように多くの後宮・臣下・兵士らも入水し、その数は伝承では十万に及んだともいわれるが、誇張を含む可能性も指摘されている。こうして約320年続いた宋王朝は完全に滅亡し、中国史上初めて異民族王朝(元)が中国全土を統一支配するという新たな時代の幕が開かれることになった。
チンギス・ハンの孫クビライは、弟アリクブケとの後継者争いを制してモンゴル帝国のハーンの地位を掌握すると、1271年に中国の古典『易経』の一節「大哉乾元」にちなみ、中国風の国号「元」を定めた。これは従来の遊牧国家的な「大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)」から、中国の伝統的な王朝としての正統性をも兼ね備えた統治体制への転換を意味していた。クビライは大都(現・北京)を新たな首都と定めて中国式の宮城・官制を整える一方、モンゴル人第一主義や独自の駅伝制(ジャムチ)などモンゴル的統治の要素も色濃く残した。この頃までにモンゴル帝国全体は事実上キプチャク・チャガタイ・イル・オゴデイの各ハン国に分立しており、元はそれらの緩やかな宗主的地位を保ちながらも、実質的には中国を主たる基盤とする王朝として機能していくことになる。
崖山の戦いで南宋の残存勢力を海上で殲滅した元は、ここに中国全土を単一の支配下に置くことに成功する。これは異民族王朝が中国の南北全域を統一支配した史上初めての事例であり、以後の征服王朝(清など)の先例ともなった。元は統治にあたり住民をモンゴル人・色目人(西域出身者)・漢人(旧金支配下の華北民)・南人(旧南宋支配下の江南民)の四階層に区分し、科挙も一時停止するなど、江南の旧宋の士大夫層を政治の中枢からは遠ざける統治方針をとった。一方で江南の豊かな経済力そのものは温存・活用され、大運河の改修や海運の拡充を通じて江南の物資を大都へ運ぶ体制が整えられていった。
クビライは日本国王(実質的には鎌倉幕府)に対し朝貢と服属を求める国書を数度にわたり送ったが、執権北条時宗はこれを黙殺し、対決姿勢を明確にした。1274年、元と服属下の高麗の連合軍およそ3万が対馬・壱岐を経て博多湾に上陸し、集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火薬兵器を用いて日本の御家人たちを苦しめた。しかし元軍は内部の連携不足や補給の限界に加え、上陸後まもなく暴風雨(後世「神風」と呼ばれる)に見舞われたともされ、大きな戦果を得ないまま撤退することとなった。この遠征は日本側で「文永の役」と呼ばれ、これを機に鎌倉幕府は再度の襲来に備えて博多湾岸に石造りの防塁を築くなど、本格的な国防体制の整備に乗り出すことになる。
南宋を滅ぼしたことで新たに江南の水軍・兵力を動員可能となった元は、1281年、朝鮮半島から向かう東路軍と江南から向かう江南軍を合わせて約14万ともいわれる空前の大軍を日本へ差し向けた。しかし博多湾岸に築かれていた防塁に阻まれて上陸が思うように進まず、艦隊は長く洋上に留め置かれることを余儀なくされる。そこへ大型の台風が直撃し、多くの船が損壊・沈没する壊滅的な被害を受け、遠征は事実上崩壊した。この二度にわたる遠征失敗は日本側で「神風」思想を強め、以後の神国意識の形成に大きな影響を与える一方、元側でも遠征に伴う財政負担への不満が高まり、クビライは三度目の日本遠征を計画しながらも他地域での反乱や国内事情によって実現には至らなかった。
ヴェネツィアの商人一族に生まれたマルコ・ポーロは、父・叔父とともに陸路シルクロードを経て元の宮廷に至り、約17年にわたりクビライに仕えたと伝えられる(近年ではその渡航の実在性や滞在の詳細をめぐり懐疑的な見解を示す研究者もいる)。帰国後、ジェノヴァとの海戦で捕虜となった獄中において、同房の作家ルスティケロ・ダ・ピサにその見聞を口述筆記させたのが本書成立の経緯とされる。黄金にあふれた東方の島国「ジパング」についての記述は後世大きな反響を呼び、コロンブスが西回りでアジアを目指す航海を計画する動機の一つになったとも言われる。もっとも当時のヨーロッパでは、あまりに壮大なその内容が誇張・虚構と疑われ、マルコ自身が「百万法螺吹きのマルコ(イル・ミリオーネ)」と揶揄されたという逸話も残っている。
元末になると財政悪化を補うための重税に加え、黄河の大規模な氾濫とその治水工事への農民の強制動員が大きな不満を招いていた。こうした中、弥勒仏がこの世に降臨し新たな理想世界をもたらすという終末思想的な信仰を説く白蓮教の指導者韓山童・劉福通らが蜂起し、頭に紅い布を巻いたことから「紅巾軍」と呼ばれる反乱勢力が各地に広がった。反乱は瞬く間に華中・華南一帯に波及し、元の統治機構は急速にその実効支配力を失っていくことになる。この動乱の中からは、後に明を建てる朱元璋をはじめ、江南に割拠した張士誠、湖広を制した陳友諒など、群雄と呼ばれる有力な地方勢力が次々と台頭してくることになった。
紅巾軍の一派から頭角を現した朱元璋は、長江中流の陳友諒、下流の張士誠といった有力な群雄たちを次々と打ち破り、江南一帯の統一を成し遂げていった。1368年、朱元璋は南京(応天府)で皇帝に即位し、国号を「明」、元号を「洪武」と定める。同年、明軍は北上を続けて元の都大都を包囲し、最後の皇帝順帝(トゴン・テムル)は抵抗をあきらめてモンゴル高原へと退いた。こうして約100年に及んだ元による中国支配は終わりを告げたが、順帝以下の元朝勢力はモンゴル高原でなお命脈を保ち、後世「北元」と呼ばれる政権として明と長く対峙し続けることになる。
明の初代皇帝洪武帝朱元璋は、貧しい農民の子として生まれ、幼くして両親を失い一時は托鉢僧として放浪した後に紅巾軍に身を投じるという、中国王朝史上でも際立って異色の経歴の持ち主であった。1368年に皇帝に即位すると、丞相の胡惟庸が謀反を企てたとされる「胡惟庸の獄」を機に丞相制度そのものを廃止し、六部(中央官庁)を皇帝に直属させることで空前絶後ともいえる皇帝独裁体制を築き上げた。また里甲制による戸籍管理や、耕地の形状を魚の鱗のように図示した魚鱗図冊の作成など、末端の農村社会にまで及ぶ緻密な統治システムを整備し、中央集権国家の基盤を固めた。一方でその治世後半には、かつての功臣たちを謀反の疑いで大量に粛清する「胡藍の獄」と呼ばれる苛烈な粛清が行われ、数万人ともいわれる人々が命を落としたとされる。
洪武帝の死後帝位を継いだ建文帝は、諸王の勢力を削ぐ「削藩」政策を進めたが、これに強く反発した叔父の燕王朱棣が北平(現・北京)で挙兵する。朱棣は「君側の奸を除く」ことを名目とした「靖難の役」と呼ばれる内戦を約3年にわたり戦い抜き、1402年に南京を陥落させた。この際、建文帝は宮殿の火災の中で行方不明となり、焼死したとも僧に扮して脱出し諸国を放浪したとも伝えられ、その後の生死は後世まで謎とされ続けた。甥から武力で帝位を奪ったという弱い正統性を補うためもあってか、即位した永楽帝は鄭和の大遠征、北京への遷都、モンゴルへの親征などきわめて積極的な内外政策を次々と推し進め、明の国威を大きく高めることになる。
雲南出身のムスリムで幼くして宦官として宮廷に入った鄭和は、永楽帝の絶大な信任を得て、南海(インド洋方面)への大艦隊派遣を委ねられることになった。艦隊は全長100メートルを超えたとも伝えられる大型帆船「宝船」を含む数百隻、乗組員2万人以上という当時世界最大級の規模を誇り、1405年からの第一回遠征を皮切りに、以後7回にわたりチャンパ・スマトラ・セイロン・ホルムズ、さらにはアフリカ東岸のマリンディにまで到達する空前の航海を成し遂げた。遠征の目的については、周辺諸国に朝貢を促し明の威信を誇示する狙いのほか、靖難の変で行方不明となった建文帝の消息を探るためであったとする説もあり、諸説が併存している。しかし永楽帝の死後は莫大な財政負担を理由に遠征は打ち切られ、以後の明は民間の海上貿易を厳しく制限する海禁政策へと転じていくことになり、鄭和の遠征がもたらしたはずの海洋進出の機運は長く生かされないまま終わることとなった。
永楽帝は、かつて自らが燕王として長年統治した本拠地北平を新たな首都と定め、1421年に正式に遷都を断行した。これは単なる立地の変更にとどまらず、北方の脅威であるモンゴル勢力に対し皇帝自らが最前線近くに座して国境防衛にあたるという「天子守辺」の姿勢を内外に示す政治的意味合いも強く持っていた。新首都建設にあたっては延べ100万人ともいわれる人員が動員され、四川・雲南の奥地から運ばれた貴重な金糸楠木や特殊な焼成技術による城磚などが用いられた壮麗な宮殿群、すなわち紫禁城が築かれた。旧都南京は「留都」として一定の官庁組織を残したまま副次的な地位にとどめ置かれ、以後紫禁城は清代末期に至るまで500年近くにわたり中国の政治的中枢であり続けることになる。
宦官王振の専横のもとで政治判断を誤った皇帝正統帝(英宗)は、北方のオイラト部族長エセンとの対決に際し、周囲の反対を押し切って自ら大軍を率いて親征に赴いた。しかし準備不足のまま行軍した明軍は、河北省の土木堡(現・懐来県)でエセン軍の急襲を受けて壊滅的な敗北を喫し、皇帝自身も捕虜となるという未曾有の事態を招く。この国家的危機に際し、兵部尚書于謙は動揺する朝廷をまとめて英宗の弟を新帝(景泰帝)に立て、エセンの人質としての英宗の価値を無効化した上で北京籠城戦(北京保衛戦)を指揮し、オイラト軍の攻撃を退けることに成功した。皇帝不在という空前の危機を乗り切った于謙の功績は高く評価される一方、後に釈放され帰国した英宗は復位を果たすと、自らを見限った于謙を処刑するという数奇な結末を迎えることになった。
日本を統一した豊臣秀吉は明征服(唐入り)を掲げて朝鮮への侵攻を開始し(文禄の役)、これを受けた朝鮮王朝は宗主国である明に救援を要請した。冊封関係にあった明はこれに応じて大軍を派遣し、平壌の奪還戦などをめぐり日明両軍の間で一進一退の攻防が続いた。一時は講和交渉が試みられたものの条件が折り合わず決裂し、1597年には日本軍が再び朝鮮へ侵攻する慶長の役へと発展、この間、李舜臣率いる朝鮮水軍が亀甲船を用いて日本の補給線を脅かす活躍を見せたことでも知られる。1598年の秀吉の死をきっかけに日本軍は撤退し戦争は終結したが、およそ7年に及んだこの遠征は明の国庫を著しく圧迫し、この隙に東北方面で女真族(後の後金・清)が勢力を蓄える余地を与える結果となり、明衰退の一因になったとも評価されている。
明末には度重なる天災による大飢饉、重税、東林党をめぐる激しい党争などが重なり、統治機構は著しく疲弊していた。こうした中、陝西で挙兵した李自成は「闖王」と称し、「李自成を迎えれば年貢を納めずに済む」といった民衆受けするスローガンを掲げて急速に勢力を拡大していく。1644年、李自成の軍はついに北京を陥落させ、追い詰められた最後の皇帝崇禎帝は紫禁城裏手の景山(煤山)で自ら首を吊り、270年余り続いた明は事実上滅亡した。だが山海関で清軍と対峙していた明の武将呉三桂は、李自成打倒のためにあえて清軍を関内へ招き入れるという苦渋の決断を下し、これが結果的に満洲族の清が中国全土を制圧する道を開くという、歴史の皮肉ともいえる展開を招くことになった。
李自成軍によって北京が陥落し明が事実上滅亡すると、山海関を守っていた明の武将呉三桂は、宿敵李自成を討つべく清の摂政ドルゴン(多爾袞)に援軍を要請し、関門を開いて清軍を招き入れた。清軍は李自成軍を撃破すると、その勢いのまま北京に入城し、幼い順治帝を迎えて満洲族による中国支配が事実上始まることとなる。清はまもなく漢人男性に対し満洲式の辮髪と剃髪を強制する「薙髪令」を発布し、「頭を留めれば髪を留めず、髪を留めれば頭を留めず」という強硬な布告のもと、江南各地で激しい抵抗運動(揚州十日・嘉定三屠など)を招くことになった。また南方では明の皇族を奉じる南明政権がなお抵抗を続けており、清が中国全土を完全に制圧するまでにはなお数十年の歳月を要することになる。
わずか8歳で即位した康熙帝は、15歳の時に専横を極めていた重臣鰲拝を排除して親政を開始すると、以後61年という中国歴代皇帝中最長の在位期間を通じて清の統治基盤を盤石なものへと築き上げていった。即位早々には呉三桂ら旧明の降将たちが起こした大規模な反乱「三藩の乱」を8年がかりで鎮圧し、1683年には台湾に拠っていた鄭氏政権を降して版図に組み込んだ。対外的にはロシアとの間でネルチンスク条約を締結して国境を画定し、モンゴル高原西部のジュンガル部に対しても親征を行うなど、内陸アジア方面への影響力拡大にも努めた。さらに『康熙字典』の編纂に代表される大規模な文化事業を推進し、学芸を篤く保護したことでも知られ、その治世は続く雍正・乾隆の両治世と合わせて「康雍乾盛世」と呼ばれる清朝最盛期の礎を築くことになった。
18世紀後半以降、英国東インド会社はインド産アヘンを清に大量に密輸し、これにより清国内では深刻なアヘン中毒の蔓延と、代価として支払われる銀の国外流出という二重の危機が進行していた。事態を憂慮した清朝は欽差大臣に任じた林則徐を広州に派遣し、1839年、没収した英国商人所有のアヘン約2万箱を虎門で廃棄処分する強硬策(虎門销烟)に踏み切った。英国はこれを自由貿易の侵害であるとして艦隊を派遣し開戦、近代的な軍艦・火砲を備えた英国軍の前に清軍は各地で敗北を重ねることとなる。1842年に結ばれた南京条約では香港島の割譲、広州・厦門・福州・寧波・上海の五港開港、巨額の賠償金支払い、さらに関税自主権の喪失などが定められ、これが中国近代史における一連の「不平等条約」体制の始まりとなった。
広東の客家出身で科挙に度重なる不合格を経験した洪秀全は、キリスト教の教義を独自に解釈し、自らをイエス・キリストの弟と称する宗教結社「拝上帝会」を組織した。1851年に広西で挙兵すると急速に勢力を拡大し、「太平天国」の建国を宣言、1853年には南京を占領して「天京」と改称し首都に定めた。太平天国は男女平等や土地の均分配分を掲げる「天朝田畝制度」など、当時としては急進的な社会改革を打ち出した一方、指導部内での凄惨な権力闘争「天京事変」により内部から急速に弱体化していく。最終的には曽国藩率いる湘軍、李鴻章の淮軍といった漢人官僚が組織した義勇軍と外国人傭兵部隊(常勝軍)の協力によって1864年に鎮圧されたが、この内乱による死者は諸説あるものの2000万人規模に達したともいわれ、人類史上でも屈指の犠牲者を出した内乱として記録されている。
朝鮮半島で発生した甲午農民戦争(東学党の乱)への出兵をめぐり対立を深めた清と日本は、1894年、正式に開戦に至った。清が国力を注いで整備してきた近代的艦隊北洋水師は、黄海海戦において新興の日本連合艦隊に敗れ、陸上でも各地で日本軍に押される展開となった。1895年に結ばれた下関条約では、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、そして当時の清の国家予算の数年分に相当する巨額の賠償金2億両の支払いが定められた(遼東半島は直後の三国干渉によりロシア・フランス・ドイツの圧力で清に返還される)。この敗北により、清を中心とする東アジアの伝統的な冊封体制・華夷秩序は事実上崩壊し、以後は日本を含む列強諸国による租借地獲得競争、いわゆる「中国分割」の動きが一気に加速することになった。
山東省を発端に広がった義和団は「扶清滅洋(清を助け西洋を滅ぼす)」を掲げ、キリスト教会や外国人宣教師、鉄道・電信施設などを次々と襲撃する排外運動を展開した。当初これを取り締まろうとしていた清朝の保守派、とりわけ実権を握る西太后は、次第に義和団の勢いを利用する方向へと転じ、1900年には列強諸国に対し正式に宣戦布告を行うという異例の決断に踏み切る。これに対し日本・英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・イタリア・オーストリアの8か国は連合軍を組織して天津・北京を占領し、この過程で北京の各国公使館が2か月近く包囲される「北京の55日」として知られる籠城戦も発生、西太后と光緒帝は北京を脱出して西安へ避難する事態となった。1901年に結ばれた北京議定書では、天文学的な額に上る賠償金の支払いや北京への外国軍常駐権などが認められ、清朝の国際的権威と統治能力は決定的に失墜することとなった。
清朝末期に進められていた立憲政治への改革は、実権をなお満洲貴族に独占させる「皇族内閣」の成立によって漢人官僚・知識人の期待を裏切る結果となり、さらに幹線鉄道の国有化政策が四川などで激しい反対運動(保路運動)を引き起こしていた。こうした不満が高まる中、1911年10月、武昌に駐屯していた新軍内部の革命派組織が、火薬の暴発事故をきっかけに計画の露見を恐れて予定を早め蜂起に踏み切ると、これに呼応する形で各省が雪崩を打つように清朝からの独立を宣言していった。孫文が長年海外で唱えてきた民族・民権・民生の「三民主義」の理念は独立運動の思想的支柱となり、革命は驚くほどの速さで全土に波及していく。この結果、清朝最後の皇帝であるわずか6歳の宣統帝溥儀は翌1912年2月に退位を余儀なくされ、秦の始皇帝以来2000年以上にわたり続いてきた中国の皇帝支配は、ここに歴史的な幕を下ろすことになった。
辛亥革命の広がりを受け、1912年1月、海外から帰国した孫文を臨時大総統として南京に中華民国臨時政府が樹立され、秦の始皇帝以来2000年以上にわたり続いた皇帝支配の歴史がここに終わりを告げた。しかし革命勢力は当時なお圧倒的な軍事力を握っていた北洋軍閥の実力者袁世凱と妥協し、清朝皇帝の退位実現と引き換えに大総統の地位を袁世凱に譲る「南北議和」を成立させる。この結果、孫文はわずか数か月で大総統を退き、首都も袁世凱の基盤である北京に置かれることとなり、南京臨時政府は短命に終わった。新国家は漢・満・蒙・回・蔵の五民族の融和協調を意味する「五族共和」の理念を掲げ、五色旗を新たな国旗に定めたが、その後まもなく袁世凱自身が独裁化を強め、一時的に帝政復活を企てる(洪憲帝制)など、成立当初から中華民国の共和体制は極めて不安定な出発を強いられることになった。
第一次世界大戦の戦後処理を話し合うパリ講和会議において、敗戦国ドイツが山東省に有していた権益が中国に返還されず、そのまま日本へ譲渡されることが決定すると、これに強い衝撃と怒りを覚えた北京の学生たちが1919年5月4日、天安門広場に集結して抗議デモを行い、親日派とみなされた要人の邸宅を焼き討ちするなど激しい抗議行動を展開した。運動はまたたく間に上海をはじめとする全国の都市に波及し、学生のみならず労働者・商人によるストライキも誘発する大規模な社会運動へと発展していった。この動きは単なる外交への抗議にとどまらず、陳独秀・胡適らが牽引していた「新文化運動」――口語による白話文学の提唱、「科学」と「民主」の称揚、伝統的な儒教道徳への批判――と結びつき、中国近代における思想革命としての性格を強く帯びることになる。五四運動を通じて政治的に覚醒した知識人・労働者層は、その後1921年の中国共産党結成をはじめとする以後の政治運動の重要な母体となっていった。
孫文の死後、国民党の実権を掌握した蒋介石は、軍閥を打倒し中国統一を目指す北伐を進めていたが、その過程で急進化する共産党や労働運動の存在を自らの権力基盤への脅威とみなすようになる。1927年4月、蒋介石は上海において共産党員や労働組合活動家を武力で弾圧する「上海クーデター(四・一二政変)」を断行し、これにより国民党と共産党が協力してきた第一次国共合作は事実上崩壊した。弾圧を受けた共産党は都市部での公然活動を放棄して地下活動・武装闘争路線へと転換し、毛沢東らは江西省の井崗山に革命根拠地を築いて土地改革と遊撃戦(ゲリラ戦)を組み合わせた独自の戦略を展開し始める。この1927年の分裂は、以後20年以上にわたって断続的に続くことになる国共内戦の直接の起点となった。
1931年9月、関東軍は奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を自ら爆破しながら、これを中国側の破壊工作と偽って軍事行動を開始した(柳条湖事件)。日本政府が示した不拡大方針を関東軍は無視し、独断で軍事行動を拡大させて短期間のうちに満洲全域を占領するに至る。国際連盟はこの事態を重く見てリットン調査団を現地に派遣し、日本の行動を自衛権の行使とは認められない侵略行為であるとする報告書を採択したため、日本は1933年に国際連盟からの脱退を通告し国際的孤立を深めていくことになった。翌1932年には清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を執政(後に皇帝)に担ぎ上げて満洲国の建国が宣言されたが、その実権は一貫して関東軍が掌握しており、国際的には日本の傀儡国家とみなされることとなった。
1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍との間に偶発的な発砲事件が発生すると(盧溝橋事件)、現地レベルでの収拾がつかないまま戦火は拡大し、日中間の全面戦争へと突入していった。同年8月には上海でも大規模な戦闘(第二次上海事変)が発生し、日本軍はさらに首都南京へと進撃、同年12月に南京を占領した際には多数の民間人・投降兵の殺害が生じたとされる、いわゆる「南京事件」が発生した。この事件をめぐっては犠牲者数などの実態について中国・日本双方の研究者の間でなお見解の隔たりが大きく、国際的にも議論が続いている。首都陥落後も国民政府は重慶へと拠点を移して徹底抗戦の姿勢を崩さず、また共産党との間で再び協力関係(第二次国共合作)を結んで抗日民族統一戦線を形成し、以後8年に及ぶ長期戦を戦い抜くことになった。
1945年8月、日本の無条件降伏により8年に及んだ日中戦争は終結し、同年9月には南京において日本軍代表による正式な降伏調印式が行われた。戦後の国家建設をめぐっては、対立していた国民党の蒋介石と共産党の毛沢東が重慶で直接会談し、内戦回避と平和的な政治協議を目指す「双十協定」に合意するなど、一時は融和の機運も見られた。しかしその後も両者の間の根深い相互不信は解消されず、米国のマーシャル特使による仲介も実質的な成果を上げられないまま終わり、1946年に入ると各地で両軍の軍事衝突が相次いで再燃していった。かくして協定はほどなく形骸化し、国民党と共産党は中国の主導権をめぐる全面的な内戦(国共内戦)へと本格的に突入していくことになる。
当初は装備・兵力で優位に立つと見られていた国民党軍であったが、1948年から49年にかけて満洲・華北・華中で相次いで行われた遼瀋・淮海・平津の三大戦役に連敗し、共産党の人民解放軍が急速に大陸の主導権を握っていった。1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門で中華人民共和国の建国を宣言し、これに対し劣勢に立たされた国民政府は同年12月、台北を臨時首都と定めて中国大陸からの撤退を余儀なくされた。この撤退に際しては、故宮に伝わる膨大な文物コレクションや金塊、さらに数十万人規模の軍人・民間人が台湾へと移送され、後に台北の国立故宮博物院として結実する文化的遺産の移転もこの時に行われている。台湾に拠った蒋介石はその後も戒厳令下での一党支配体制を敷きながら「大陸反攻」を掲げ続けたが、その実現に至ることはなく、この1949年の分断こそが今日にまで続く両岸関係の構図の直接の起点となった。
1949年10月1日、北京の天安門楼上に立った毛沢東は「中華人民共和国中央人民政府成立」を高らかに宣言し、長期にわたった国共内戦は共産党の勝利という形でひとまずの決着を見た。この日、天安門広場には推定30万人ともいわれる群衆が集まり、祝賀のパレードや花火が行われたと伝えられる。新政権はソ連を範とする社会主義建設路線を採用し、都市部での工商業の国有化や農村部での土地改革(地主から農民への土地再分配)を急速に進めていった。以後、天安門とその前に広がる天安門広場は、国慶節の軍事パレードをはじめとする国家的な政治儀礼が執り行われる象徴的な空間として、現在に至るまで中国の政治体制における中心的な役割を担い続けている。
毛沢東は「イギリスに15年で追いつき追い越す」という目標を掲げ、農村の隅々にまで小型の溶鉱炉を設置して増産を図る「土法炼鋼」運動や、農業生産・生活のすべてを一体化して管理する「人民公社」化を急進的に推し進めた。しかしこの過程では、地方幹部が上級機関への報告で収穫量を実態以上に水増しする「浮夸風」と呼ばれる現象が広がり、これに基づいて設定された過大な穀物供出割当が農村から必要な食糧までも奪う結果を招いた。加えて自然災害や、鉄鋼増産のため農作業の労働力・農具までもが転用されたことも重なり、1959年から1961年にかけて中国は深刻な食糧不足に見舞われることとなる。この期間の犠牲者数については研究者の間でも推計に大きな幅があり、数百万人から4000万人規模に及ぶとする説まで存在するが、いずれにせよ20世紀有数の人為的な大飢饉であったとする点では見解が一致しており、政策自体も1960年代初頭には事実上撤回されることとなった。
大躍進政策の失敗により一時党内での影響力を後退させていた毛沢東は、自らの権威回復と、劉少奇・鄧小平ら実務を重視する党内実権派の排除を狙いとして、1966年に文化大革命を発動したとされる。「造反有理(反逆には道理がある)」のスローガンのもと、紅衛兵と呼ばれる若者組織が全国で動員され、既存の権威・知識人・伝統文化を「四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)」として攻撃の対象とした。この過程で多くの知識人・幹部・一般市民が迫害を受け、農村への強制的な下放、暴力による負傷、自殺に追い込まれた事例が数多く記録されており、教育機関の長期閉鎖や貴重な文化財の破壊など、社会・文化面での損失も甚大なものとなった。1976年の毛沢東の死去と、江青ら「四人組」の逮捕によって混乱は事実上終結し、1981年に中国共産党自身が採択した公式の歴史決議は、文化大革命を「建国以来最も深刻な挫折と損失をもたらした」内乱であったと総括している。
1969年に中ソ国境で発生した武力衝突(珍宝島事件)を機に、中国は最大の脅威をソ連とみなすようになり、対抗上米国との関係改善に活路を見出そうとしていた。米国側もベトナム戦争の収拾を模索する中で中国との連携に戦略的な利益を見出し、1971年にはキッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に北京を訪問して地ならしを行った。これを受けて1972年2月、ニクソン大統領が現職の米国大統領として初めて中国を公式訪問し、毛沢東・周恩来と会談を行うという、冷戦下では想像しがたい歴史的な出来事が実現した。この訪問の成果として発表された「上海コミュニケ」は、台湾問題をめぐる立場の違いを棚上げしながらも両国関係正常化への道筋を示すものとなり、正式な国交樹立は1979年までずれ込んだものの、既に1971年の国連総会で中国代表権が中華民国から中華人民共和国へ移っていたこととあわせ、中国の国際社会への本格的な復帰を大きく後押しする転機となった。
文化大革命終結後の激しい党内権力闘争を経て、1978年12月に開かれた中国共産党第11期三中全会において、鄧小平は事実上の最高指導者としての地位を確立し、「階級闘争」路線から経済建設中心の路線への歴史的な転換を打ち出した。「白猫でも黒猫でもネズミを捕るのが良い猫である」という言葉に象徴される実利重視の姿勢のもと、農村では人民公社を解体して各農家が生産を請け負う「生産請負制」が導入され、農業生産性が大きく向上した。都市部・沿海部では深圳・珠海・厦門・汕頭に経済特区が設置され、外国資本や技術の導入、輸出加工型の産業育成が積極的に進められることとなる。この改革開放路線は以後数十年にわたり平均で年率2桁近い高度経済成長を持続させる出発点となり、中国が後に「世界の工場」と呼ばれる存在へと変貌を遂げる大きな転機となった。
1989年4月、改革派の指導者として知られた胡耀邦前総書記の死去を悼む集会をきっかけに、北京の学生を中心とする若者たちが天安門広場に集まり、政治改革や言論の自由、汚職の追放などを求める抗議行動を開始した。運動は瞬く間に北京以外の主要都市にも広がり、一部の学生はハンガーストライキを行うなどして広場を占拠する状態が数週間にわたり続いた。この間、党内では運動への対応をめぐり、対話による収拾を模索する穏健派と、断固たる措置を求める強硬派との間で意見の対立があったとされる。5月20日には北京に戒厳令が布告され、6月3日深夜から4日未明にかけて人民解放軍が装甲車両を伴って広場周辺の制圧に乗り出し、これに抵抗する市民・学生との間で衝突が発生した。この際の死傷者数について中国政府による公式な統計は公表されておらず、目撃者の証言や各国政府・研究者による推計にはなお大きな幅がある。事件をめぐる公の議論や追悼行為は現在も中国国内では厳しく制限されている一方、国際社会においては人権や民主化をめぐる歴史的な出来事として、現在に至るまでたびたび取り上げられている。
1986年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)への復帰を申請して以来、実に15年に及んだ交渉の末、中国は2001年12月11日、正式に世界貿易機関(WTO)への加盟を果たした。加盟にあたっては関税の大幅な引き下げ、市場の対外開放、国有企業改革の推進など数多くの義務を受け入れる一方、それと引き換えに得た安定的な輸出市場へのアクセスは、その後の中国経済にとって計り知れない恩恵をもたらすことになる。加盟後のわずか10年ほどの間に中国の国内総生産(GDP)と貿易総額は飛躍的に拡大し、2010年には日本を抜いて米国に次ぐ世界第2位の経済大国へと躍進を遂げた。もっとも、その急速な成長の過程では知的財産権の保護や国有企業への補助金をめぐる問題が各国から繰り返し指摘されるようになり、これらは現在に至るまで国際的な貿易摩擦の火種として残り続けている。
2001年、国際オリンピック委員会の投票により北京はトロント・パリ・イスタンブール・大阪などの候補地を破って2008年夏季オリンピックの開催地に選ばれ、改革開放から30年という節目の年に大会を迎えることとなった。映画監督張芸謀が総合演出を手がけた開会式は壮麗な演出で世界に強い印象を残し、会場として建設された「鳥の巣」(国家体育場)や「水立方」(国家水泳センター)は北京の新たなランドマークとなった。大会では中国選手団が金メダル獲得数で史上初めて首位に立ち(総メダル数では米国に次ぐ2位)、スポーツ大国としての存在感を国内外に強く印象づけた。一方で開催前の聖火リレーの過程ではチベット問題や人権状況をめぐる国際的な抗議行動が各国で発生するなど、大会そのものが政治的な注目を集める場ともなり、光と影の両面を伴う出来事として記憶されている。