589年、隋が約270年ぶりに南北を統一してから、979年に宋が五代十国の分裂を終わらせるまで——この約400年は、 世界帝国・唐の繁栄と、安史の乱・黄巣の乱を経た崩壊、そして目まぐるしく王朝が入れ替わる五代十国の動乱が続いた時代です。 このページでは前半の「隋・唐前期」と後半の「唐後期・五代十国」に分けて、代表的な合戦とそこで活躍した人物たちを地図とともに紹介します。
隋が南北を統一するも二代で倒れ、代わった唐が太宗のもとで草原から西域までを従える世界帝国へと成長した時代。
実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています(薩水の戦いは、遠征の拠点となった遼東城の位置で示しています)。
588年冬、文帝は次男の晋王楊広を総帥とし、総勢51万余とされる大軍を長江の上流から下流まで八つの方面に分けて進発させた。翌589年正月、賀若弼と韓擒虎の軍が長江を渡って都建康に迫ると、享楽にふけっていた陳の宮廷は組織的な抵抗もできないまま韓擒虎の軍の突入を許した。後主陳叔宝は寵姫とともに宮中の井戸に隠れていたところを引き出されて捕らえられたと伝えられる。こうして西晋の滅亡以来約270年続いた南北の分裂は終わりを告げた。
煬帝は612年、号して200万(戦闘部隊だけで113万余とされる)という空前の大軍で高句麗に親征した。しかし遼東城の攻略に手間取ったため、宇文述らが30万余の別働隊を率いて都の平壌を直接目指す。高句麗の名将乙支文徳は偽りの降伏と退却で隋軍を奥深くへ誘い込み、疲れ果てて引き返す隋軍が薩水を渡るところを襲って壊滅させた。生きて遼東へ戻れたのは2700人ほどだったと伝えられる。煬帝はその後も遠征を繰り返したが成果はなく、重い負担に苦しむ民衆の反乱が隋の滅亡を早めることになった。
洛陽に拠って「鄭」を称した王世充を秦王李世民が包囲すると、河北の竇建徳が10万余とされる大軍で救援に向かった。李世民は洛陽の包囲を続けさせたまま、自らわずか3500の精鋭を率いて東の要衝虎牢関に先回りし、竇建徳軍の進路を塞ぐ。約1か月のにらみ合いの末、疲れて陣形の乱れた夏軍に騎兵で突撃してこれを大破し、竇建徳を捕虜とした。援軍の望みを絶たれた王世充も降伏し、一戦で二大勢力を同時に屈服させたこの勝利によって、唐による天下統一の流れが決定づけられた。
唐建国の最大の功労者となった次男の秦王李世民と、皇太子の兄李建成・弟李元吉との対立は、やがて互いの命を狙うほどに深まった。626年6月、李世民は宮城の北門である玄武門に兵を伏せ、参内しようとした建成と元吉を待ち伏せて、自ら建成を射殺し、元吉も尉遅敬徳に討たれた。父の高祖李淵は事態を追認して李世民を皇太子に立て、2か月後には譲位する。こうして即位した太宗は「貞観の治」と称される名君の治世を築いたが、兄弟を手にかけた即位の経緯は後世まで議論の的となった。
唐の建国当初、北方の東突厥は強大で、626年には頡利可汗の大軍が長安近郊の渭水まで迫り、即位直後の太宗が自ら出向いて盟約を結ぶほどであった。その後、東突厥で内紛や雪害が続いて弱体化すると、太宗は反撃に転じる。630年、名将李靖はわずか3000の騎兵で夜襲をかけて定襄を落とし、さらに李勣とともに陰山の頡利可汗の本営を急襲して大破した。捕らえられた頡利可汗は長安へ送られ、北方の遊牧諸部族は太宗に「天可汗」の称号を奉って、唐は東アジアの盟主としての地位を確立した。
安史の乱で揺らいだ唐が藩鎮の自立と黄巣の乱によって崩れ、華北では5つの王朝が、南方では十余りの国が興亡を繰り返した時代。
実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています(黄巣の乱は長安占領の位置で示しています)。
隋の統一、唐の最盛期、安史の乱と藩鎮の割拠、そして五代十国の分裂から宋の統一まで——再生ボタンまたは年代タブで、勢力図が移り変わる様子を確認できます。
589年の隋の統一から979年の宋の統一まで、勢力図の移り変わりを簡略化した区画単位のアニメーションでたどります(国境は史実を厳密に示すものではありません)。
北周から禅譲を受けた楊堅(文帝)が581年に隋を建て、589年に南朝の陳を滅ぼして約270年ぶりに中国を再統一した。北方の草原には突厥、東北の遼東には高句麗が控える。
755年冬、范陽(現在の北京付近)で挙兵した節度使安禄山の軍はたちまち洛陽を落とし、翌年正月には「大燕皇帝」を称した。唐は長安の東の関門潼関に老将哥舒翰を置いて守りを固めたが、哥舒翰に兵権を握られることを恐れた宰相楊国忠の進言もあって、玄宗は出撃を強く命じる。やむなく打って出た唐軍は隘路で崔乾祐の伏兵に遭って壊滅し、哥舒翰も捕らえられた。潼関が破られると玄宗は長安を捨てて蜀へ逃れ、その途上の馬嵬駅では怒った兵士たちが楊国忠を殺し、玄宗は楊貴妃にも死を賜らざるを得なくなった。
安禄山が息子に殺された後も反乱軍の勢いは衰えず、唐の財政を支える江淮地方への南下をうかがった。その通り道にあたる睢陽城では、張巡と許遠がわずか数千の兵で、十数万ともいわれる尹子奇の大軍を相手に約10か月にわたって籠城を続けた。救援もないまま食糧が尽き、城内では雀や鼠、樹皮まで食べ尽くしたと伝えられる凄惨な状況の末、757年10月に城は陥落して張巡らは処刑された。しかしこの長期の抗戦で反乱軍の江淮進出は阻まれ、南方からの物資が守られたことが、同じ年の唐による長安・洛陽の奪回を支えたと評価されている。
塩の密売人であった王仙芝と黄巣は、重税と飢饉にあえぐ農民を集めて875年ごろ相次いで挙兵した。王仙芝の死後に反乱軍を率いた黄巣は、官軍との正面衝突を避けて江南から遠く広州まで転戦したのち北へ転じ、880年末に洛陽、続いて長安を占領して「大斉」の皇帝に即位した。しかし配下の朱温が唐に寝返って全忠の名を賜り、沙陀族の李克用の騎兵軍が加わると形勢は逆転する。883年に長安を追われた黄巣は、翌884年に泰山の近くで滅んだ。乱は鎮圧されたものの唐の権威は地に落ち、鎮圧に功のあった朱全忠と李克用の宿命の対立が、次の五代の時代を形作っていく。
父李克用の跡を継いだ晋王李存勗は、黄河を挟んで朱全忠の後梁と十数年にわたる攻防を続けた。923年4月に皇帝に即位して国号を唐(後唐)とすると、同年10月、後梁の主力が黄河沿いに釘付けになっている隙を突き、李嗣源を先鋒にわずか数日で後梁の都汴州へ急進する。不意を突かれた後梁の末帝は自ら命を絶ち、後梁は建国17年で滅んだ。李克用が臨終に三本の矢を託して燕・契丹・梁への復讐を命じたという「三矢の遺言」の伝説は、この勝利で果たされたとされる。しかし李存勗は即位後、役者を寵愛して政治を乱し、わずか3年後に反乱のなかで命を落とした。
954年、後周の太祖郭威が没して養子の柴栄(世宗)が即位すると、その隙を突いて太原の北漢が遼(契丹)の援軍を得て南下した。世宗は重臣の反対を押し切って親征し、高平で北漢軍と激突する。開戦直後に右翼の将軍たちが逃げ出して全軍が崩れかけたが、世宗が自ら矢の飛び交う最前線に馬を進めて督戦し、禁軍の将校であった趙匡胤らが決死の突撃をかけて形勢を逆転、北漢軍を大破した。戦後、世宗は逃亡した将校70余人を処刑して軍紀を引き締め、禁軍の改革に着手する。この戦いで頭角を現した趙匡胤が、6年後に宋を建国することになる。なお高平は、戦国時代の長平の戦いの古戦場でもある。
960年の陳橋の変で即位した太祖趙匡胤は、豊かな南方を先に平定し、遼と結ぶ強敵の北漢は後回しにする「先南後北」の方針をとった。963年の荊南・湖南を皮切りに、965年に後蜀、971年に南漢を降し、975年には名将曹彬が長江に浮橋を架けて南唐の都金陵を落とし、詞人として名高い後主李煜を降伏させた。太祖の急死後に即位した弟の太宗は、978年に呉越などを戦わずして帰順させ、979年には遼の援軍を退けて北漢の太原を陥落させる。こうして約70年続いた五代十国の分裂は終わったが、遼の手にある燕雲十六州の奪回は果たせず、宋はその後も北方の脅威に悩まされ続けることになる。
隋による統一の前、約400年前の「三国時代」や、さらにさかのぼる「春秋・戦国時代」の合戦については、 あわせて下記の特集ページもご覧ください。宋と遼の攻防を描いた『楊家将』の特集もあります。