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隋唐・五代 合戦マップ

589年、隋が約270年ぶりに南北を統一してから、979年に宋が五代十国の分裂を終わらせるまで——この約400年は、 世界帝国・唐の繁栄と、安史の乱・黄巣の乱を経た崩壊、そして目まぐるしく王朝が入れ替わる五代十国の動乱が続いた時代です。 このページでは前半の「隋・唐前期」と後半の「唐後期・五代十国」に分けて、代表的な合戦とそこで活躍した人物たちを地図とともに紹介します。

581 – 755

隋・唐前期の合戦

隋が南北を統一するも二代で倒れ、代わった唐が太宗のもとで草原から西域までを従える世界帝国へと成長した時代。

時代の流れ

合戦地図

実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています(薩水の戦いは、遠征の拠点となった遼東城の位置で示しています)。

突厥高句麗関中河北江南12345

主要な戦い

隋文帝
1隋の陳ちん征服(建康けんこう攻略)588〜589年
建康(江蘇省南京市)
隋軍:楊広ようこう(晋王・のちの煬帝)・賀若弼がじゃくひつ・韓擒虎かんきんこ
陳軍:陳叔宝ちんしゅくほう(後主こうしゅ)

588年冬、文帝は次男の晋王楊広ようこうを総帥とし、総勢51万余とされる大軍を長江の上流から下流まで八つの方面に分けて進発させた。翌589年正月、賀若弼がじゃくひつと韓擒虎かんきんこの軍が長江を渡って都建康けんこうに迫ると、享楽にふけっていた陳の宮廷は組織的な抵抗もできないまま韓擒虎の軍の突入を許した。後主陳叔宝ちんしゅくほうは寵姫とともに宮中の井戸に隠れていたところを引き出されて捕らえられたと伝えられる。こうして西晋せいしんの滅亡以来約270年続いた南北の分裂は終わりを告げた。

伝: 閻立本(唐代)「歴代帝王図巻」 / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
隋煬帝
2高句麗こうくり遠征(薩水さっすいの戦い)612年
遼東城(遼寧省遼陽市)〜薩水(朝鮮半島北部の清川江)
隋軍:煬帝ようだい・宇文述うぶんじゅつ・于仲文うちゅうぶん
高句麗軍:乙支文徳いつしぶんとく

煬帝ようだいは612年、号して200万(戦闘部隊だけで113万余とされる)という空前の大軍で高句麗に親征した。しかし遼東城りょうとうじょうの攻略に手間取ったため、宇文述うぶんじゅつらが30万余の別働隊を率いて都の平壌を直接目指す。高句麗の名将乙支文徳いつしぶんとくは偽りの降伏と退却で隋軍を奥深くへ誘い込み、疲れ果てて引き返す隋軍が薩水さっすいを渡るところを襲って壊滅させた。生きて遼東へ戻れたのは2700人ほどだったと伝えられる。煬帝はその後も遠征を繰り返したが成果はなく、重い負担に苦しむ民衆の反乱が隋の滅亡を早めることになった。

伝: 閻立本(唐代)「歴代帝王図巻」 / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
唐太宗
3虎牢関ころうかんの戦い621年
虎牢関(河南省滎陽市)
唐軍:李世民りせいみん(秦王)・尉遅敬徳うっちけいとく
夏・鄭軍:竇建徳とうけんとく・王世充おうせいじゅう

洛陽に拠って「鄭」を称した王世充おうせいじゅうを秦王李世民りせいみんが包囲すると、河北の竇建徳とうけんとくが10万余とされる大軍で救援に向かった。李世民は洛陽の包囲を続けさせたまま、自らわずか3500の精鋭を率いて東の要衝虎牢関ころうかんに先回りし、竇建徳軍の進路を塞ぐ。約1か月のにらみ合いの末、疲れて陣形の乱れた夏軍に騎兵で突撃してこれを大破し、竇建徳を捕虜とした。援軍の望みを絶たれた王世充も降伏し、一戦で二大勢力を同時に屈服させたこの勝利によって、唐による天下統一の流れが決定づけられた。

『南薫殿図像』(国立故宮博物院蔵) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
唐太宗
4玄武門げんぶもんの変626年
長安・太極宮の北門(陝西省西安市)
秦王府:李世民りせいみん・長孫無忌ちょうそんむき・尉遅敬徳うっちけいとく
東宮:皇太子李建成りけんせい・斉王李元吉りげんきつ

唐建国の最大の功労者となった次男の秦王李世民りせいみんと、皇太子の兄李建成りけんせい・弟李元吉りげんきつとの対立は、やがて互いの命を狙うほどに深まった。626年6月、李世民は宮城の北門である玄武門げんぶもんに兵を伏せ、参内しようとした建成と元吉を待ち伏せて、自ら建成を射殺し、元吉も尉遅敬徳うっちけいとくに討たれた。父の高祖李淵りえんは事態を追認して李世民を皇太子に立て、2か月後には譲位する。こうして即位した太宗は「貞観じょうがんの治」と称される名君の治世を築いたが、兄弟を手にかけた即位の経緯は後世まで議論の的となった。

『南薫殿図像』(国立故宮博物院蔵) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
李靖
5東突厥とうとっけつの平定(陰山いんざんの戦い)630年
定襄・陰山山脈一帯(内モンゴル自治区)
唐軍:李靖りせい・李勣りせき
東突厥:頡利可汗けつりかがん

唐の建国当初、北方の東突厥とうとっけつは強大で、626年には頡利可汗けつりかがんの大軍が長安近郊の渭水まで迫り、即位直後の太宗が自ら出向いて盟約を結ぶほどであった。その後、東突厥で内紛や雪害が続いて弱体化すると、太宗は反撃に転じる。630年、名将李靖りせいはわずか3000の騎兵で夜襲をかけて定襄ていじょうを落とし、さらに李勣りせきとともに陰山いんざんの頡利可汗の本営を急襲して大破した。捕らえられた頡利可汗は長安へ送られ、北方の遊牧諸部族は太宗に「天可汗てんかがん」の称号を奉って、唐は東アジアの盟主としての地位を確立した。

Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
755 – 979

唐後期・五代十国の合戦

安史の乱で揺らいだ唐が藩鎮の自立と黄巣の乱によって崩れ、華北では5つの王朝が、南方では十余りの国が興亡を繰り返した時代。

時代の流れ

合戦地図

実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています(黄巣の乱は長安占領の位置で示しています)。

契丹(遼)関中河北蜀江南123456

勢力図の変遷アニメーション

隋の統一、唐の最盛期、安史の乱と藩鎮の割拠、そして五代十国の分裂から宋の統一まで——再生ボタンまたは年代タブで、勢力図が移り変わる様子を確認できます。

589年の隋の統一から979年の宋の統一まで、勢力図の移り変わりを簡略化した区画単位のアニメーションでたどります(国境は史実を厳密に示すものではありません)。

隋突厥高句麗
隋の南北統一589年

北周ほくしゅうから禅譲を受けた楊堅ようけん(文帝)が581年に隋を建て、589年に南朝の陳ちんを滅ぼして約270年ぶりに中国を再統一した。北方の草原には突厥とっけつ、東北の遼東りょうとうには高句麗こうくりが控える。

隋ずい
突厥とっけつ
高句麗こうくり

主要な戦い

1潼関どうかんの戦い(安史の乱)756年
潼関(陝西省渭南市潼関県)
唐軍:哥舒翰かじょかん
燕軍:安禄山あんろくざん・崔乾祐さいけんゆう

755年冬、范陽はんよう(現在の北京付近)で挙兵した節度使安禄山あんろくざんの軍はたちまち洛陽を落とし、翌年正月には「大燕皇帝」を称した。唐は長安の東の関門潼関どうかんに老将哥舒翰かじょかんを置いて守りを固めたが、哥舒翰に兵権を握られることを恐れた宰相楊国忠ようこくちゅうの進言もあって、玄宗は出撃を強く命じる。やむなく打って出た唐軍は隘路で崔乾祐さいけんゆうの伏兵に遭って壊滅し、哥舒翰も捕らえられた。潼関が破られると玄宗は長安を捨てて蜀へ逃れ、その途上の馬嵬駅ばかいえきでは怒った兵士たちが楊国忠を殺し、玄宗は楊貴妃ようきひにも死を賜らざるを得なくなった。

2睢陽すいようの戦い757年
睢陽(河南省商丘市)
唐軍:張巡ちょうじゅん・許遠きょえん
燕軍:尹子奇いんしき

安禄山が息子に殺された後も反乱軍の勢いは衰えず、唐の財政を支える江淮地方への南下をうかがった。その通り道にあたる睢陽すいよう城では、張巡ちょうじゅんと許遠きょえんがわずか数千の兵で、十数万ともいわれる尹子奇いんしきの大軍を相手に約10か月にわたって籠城を続けた。救援もないまま食糧が尽き、城内では雀や鼠、樹皮まで食べ尽くしたと伝えられる凄惨な状況の末、757年10月に城は陥落して張巡らは処刑された。しかしこの長期の抗戦で反乱軍の江淮進出は阻まれ、南方からの物資が守られたことが、同じ年の唐による長安・洛陽の奪回を支えたと評価されている。

朱全忠
3黄巣こうそうの乱(長安占領)875〜884年
長安(陝西省西安市)ほか華北・江南・嶺南の各地
反乱軍:王仙芝おうせんし・黄巣こうそう・朱温しゅおん(のちの朱全忠)
唐軍:李克用りこくよう(沙陀さだ軍)・各地の節度使

塩の密売人であった王仙芝おうせんしと黄巣こうそうは、重税と飢饉にあえぐ農民を集めて875年ごろ相次いで挙兵した。王仙芝の死後に反乱軍を率いた黄巣は、官軍との正面衝突を避けて江南から遠く広州まで転戦したのち北へ転じ、880年末に洛陽、続いて長安を占領して「大斉」の皇帝に即位した。しかし配下の朱温しゅおんが唐に寝返って全忠ぜんちゅうの名を賜り、沙陀さだ族の李克用りこくようの騎兵軍が加わると形勢は逆転する。883年に長安を追われた黄巣は、翌884年に泰山の近くで滅んだ。乱は鎮圧されたものの唐の権威は地に落ち、鎮圧に功のあった朱全忠と李克用の宿命の対立が、次の五代の時代を形作っていく。

『中国歴代名人画像譜』(2003年刊) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
李存勗
4後唐こうとうの汴州べんしゅう急襲(後梁の滅亡)923年
汴州(河南省開封市)
後唐軍:李存勗りそんきょく(荘宗)・李嗣源りしげん
後梁軍:末帝まってい(朱友貞しゅゆうてい)・王彦章おうげんしょう

父李克用りこくようの跡を継いだ晋王李存勗りそんきょくは、黄河を挟んで朱全忠の後梁こうりょうと十数年にわたる攻防を続けた。923年4月に皇帝に即位して国号を唐(後唐)とすると、同年10月、後梁の主力が黄河沿いに釘付けになっている隙を突き、李嗣源りしげんを先鋒にわずか数日で後梁の都汴州べんしゅうへ急進する。不意を突かれた後梁の末帝は自ら命を絶ち、後梁は建国17年で滅んだ。李克用が臨終に三本の矢を託して燕・契丹・梁への復讐を命じたという「三矢の遺言」の伝説は、この勝利で果たされたとされる。しかし李存勗は即位後、役者を寵愛して政治を乱し、わずか3年後に反乱のなかで命を落とした。

『南薫殿図像』(国立故宮博物院蔵) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
柴栄
5高平こうへいの戦い954年
高平(山西省晋城市高平市)
後周軍:世宗せいそう(柴栄さいえい)・趙匡胤ちょうきょういん
北漢・遼軍:劉崇りゅうすう(北漢)・楊袞ようこん(遼)

954年、後周こうしゅうの太祖郭威かくいが没して養子の柴栄さいえい(世宗)が即位すると、その隙を突いて太原の北漢ほっかんが遼(契丹)の援軍を得て南下した。世宗は重臣の反対を押し切って親征し、高平こうへいで北漢軍と激突する。開戦直後に右翼の将軍たちが逃げ出して全軍が崩れかけたが、世宗が自ら矢の飛び交う最前線に馬を進めて督戦し、禁軍の将校であった趙匡胤ちょうきょういんらが決死の突撃をかけて形勢を逆転、北漢軍を大破した。戦後、世宗は逃亡した将校70余人を処刑して軍紀を引き締め、禁軍の改革に着手する。この戦いで頭角を現した趙匡胤が、6年後に宋を建国することになる。なお高平は、戦国時代の長平ちょうへいの戦いの古戦場でもある。

『中国歴代名人画像譜』(2003年刊) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
宋太祖
6宋の天下統一(北漢平定)963〜979年
太原(山西省太原市・北漢の都)ほか
宋軍:太祖たいそ(趙匡胤ちょうきょういん)・太宗たいそう(趙光義ちょうこうぎ)・曹彬そうひん
十国:荊南・湖南・後蜀・南漢・南唐・北漢など

960年の陳橋ちんきょうの変で即位した太祖趙匡胤ちょうきょういんは、豊かな南方を先に平定し、遼と結ぶ強敵の北漢は後回しにする「先南後北せんなんこうほく」の方針をとった。963年の荊南・湖南を皮切りに、965年に後蜀こうしょく、971年に南漢なんかんを降し、975年には名将曹彬そうひんが長江に浮橋を架けて南唐なんとうの都金陵を落とし、詞人として名高い後主李煜りいくを降伏させた。太祖の急死後に即位した弟の太宗は、978年に呉越ごえつなどを戦わずして帰順させ、979年には遼の援軍を退けて北漢ほっかんの太原を陥落させる。こうして約70年続いた五代十国の分裂は終わったが、遼の手にある燕雲十六州の奪回は果たせず、宋はその後も北方の脅威に悩まされ続けることになる。

『宋代帝半身像冊』(国立故宮博物院蔵) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

隋による統一の前、約400年前の「三国時代」や、さらにさかのぼる「春秋・戦国時代」の合戦については、 あわせて下記の特集ページもご覧ください。宋と遼の攻防を描いた『楊家将』の特集もあります。